太田述正コラム#14268(2024.6.11)
<板垣退助『立國の大本』を読む(その7)>(2024.9.6公開)
「・・・個人の栄辱利害を以て意と為さずして、道に立ち義を行ひ、上祖先を辱めず下子孫を辱めざらんとするは、祖先教に基く所の東洋の社会組織の、独り其美を擅にする所たらずんばあらず。たゞ東洋の社会組織の弊は、其餘りに家族主義に偏する結果、今日に於ても猶ほ封建の遺風を脱する能はずして、家長は無限の権力を有し、家族は常に絶対的服従を強ひられ、為めに個人の自由と其発展を阻害するに在り。是故にこの家長専制の弊を改めて、家族の間に立憲的の空気を注入し、家長は立憲国の帝王の如く、主婦は立憲国の宰相の如く、子女は立憲国の人臣の如く、子女は家長の権力に服すると共に、家長は子女の自由を尊重し、斯の如くして一方に於て東洋の社会組織の美点を保存すると同時に、一方に於て其弊害を矯正するは、寔に今日の急務たらずんばあらず。・・・
然るに今やこの東洋の社会組織の美点は殆んど忘れられんとし、随つて徳育の根幹の振撼せられんとするの勢あるは、予の憂慮措く能はざる所にして、予はこの一世の風潮を挽回し、東洋固有の美点を維持振興すると共に、家族の間に立憲的空気を注入する上に於ても、家族制を基礎とする所の戸主選挙法を行ひ、以て大に継続観念に基く所の国家観念を涵養するの必要あるを信ずる也。・・・
⇒ですから、板垣のこういった主張は寝言に過ぎない、と、切り捨てていいでしょう。(太田)
社会の実情に於て権利は之を平等均一ならしむることを得べきも、生活は決して之を平等均一ならしむることを得べからず。何となれば人間の智愚、強弱、勇怯、勤惰等の差別ある以上、これより生ずる所の生活の現象は自から相異ならざるを得ざるを以て也。又た之と同じく人爵に基く所の階級即ち華族制度の如きは、もと人為に成れるものなるが故に、之を破壊することを得るも、其人の人格よりして自然に発生せる所の天爵なるものは、人為的のものにあらざるが故に、到底これを破壊すること能はず。梅桜桃李の各其色と香とを異にし、之をして一ならしむること能はざるが如く、人格の光よりして発する所の天爵も亦た自然に相異なる所ありて、何者の力を以てするも到底之を平等均一ならしめ得べきにあらず。是に於てか天爵よりする所の不平等は、生活上に於ける不平等と俱に到底之を免るべきにあらざる也。
然るに社会主義は之に反して生活の平等均一を以て主義とする者にして、平等と共産を以て其前提と為せり。・・・
斯の如きは到底個人性ある人間の堪へ得る所にあらず。・・・
⇒この社会主義(共産主義)批判のくだりはしごくまっとうです。(太田)
然らば則ち社会政策<(注5)>とは果して如何なるものなるか。・・・
(注5)「もともと社会政策という言葉は1872年ドイツで創立された社会政策学会に結集した新歴史学派の経済学者,A.H.G.ワーグナー,G.シュモラー,L.ブレンターノなどによって喧伝されるようになったもので,そこでは,ドイツの急速な資本主義化にともなう階級対立の深刻化と社会主義運動の勃興による社会革命への危惧にもとづいて,階級利害を超越した国家が経済に介入し分配的正義を実現しなければならないと主張された。つまり,新歴史学派による社会政策の勧めは,現存の資本主義体制を容認しつつ,自由主義に反対し社会主義にも反対するという社会改良の主張にほかならなかった。その方策として提唱された政策手段は,累進所得税の導入など租税改革による私有財産に対する規制,階級対立の激化の防波堤としての手工業者・自営農民など中産階級の維持・拡大,あるいは団結の自由を保障し労働組合による労働者の自己救助を伸長せしめることなどさまざまであったが,いずれの場合にも,分配的正義の実現という倫理的価値判断を経済学の根底にすえ,経済学の倫理化によって社会政策の必要を根拠づけようとしたところに特徴があった。このような新歴史学派による社会政策の主張は,20世紀初頭の価値判断論争を通じて退潮し,第1次大戦後ワイマール体制のもとにおいて,社会民主党系の理論家E.ハイマンなどによって社会政策をもって社会主義への橋頭堡とみなす理論が展開されることとなった。そこでは,社会政策は〈自由と労働の尊厳〉の実現をめざす社会運動の理念の制度的沈殿物であるとみなされた。社会政策は資本主義体制の内部に生まれたものであって,その容認によってはじめて体制が維持されているという限りでは,資本主義体制の維持に役立ってはいるが,もともと社会政策が資本主義体制とは異質な社会的理念の産物であるからには,社会政策的獲得物が積み重ねられていけば,ついには資本主義体制を揚棄しうる道が開けてくると主張されたのである。
日本では,1890年代に金井延などによって新歴史学派の社会政策論が導入され,96年に社会政策学会の創立をみたが,大恐慌によって資本主義各国で社会政策が危機に陥った1930年代に社会政策に関する新たな理解が展開されることとなった。」
https://kotobank.jp/word/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E6%94%BF%E7%AD%96-75629
人類の天賦たる個人性と社会性の二方面を調和し、個人の自覚と社会の恩愛とを塩梅し、個人の自由に立脚すると同時に社会の約束に重きを置き、強は弱を助け、智は愚を輔け、富は貧を扶け、縦使生活を平等均一ならしむる能はずとするも、同じく生を天に稟けたる所の同胞人類をして、其生産の衡平正当なる分配によりて、其生活に甚だしき懸隔を生じ、之によりて不平不満の念を懐くが如きこと無からしめ、万民悉く鼓腹撃壌して、其才能を発揮し、其志望を遂げ、以て共同生活の意義を全うするの謂に外ならざる也。 」(42~44、50~51)
⇒板垣は、ドイツの新歴史学派が提唱し(「注5」)ビスマルクが採用した社会政策論
https://kotobank.jp/word/%E3%83%93%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%81%AE%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E6%94%BF%E7%AD%96-3131528
を祖述している(に過ぎない)わけですが、今更ながら驚いたのは、米国の社会政策はニューディール(1933~35年)、英国の社会政策はベヴァリッジ報告(1942年)と国民保険法(National Health Service Act)(1946年)、
https://en.wikipedia.org/wiki/Beveridge_Report
https://en.wikipedia.org/wiki/Social_policy
にまでしか遡らない、ということです。
米英が、ドイツのように共産主義の脅威に晒されることがなかったということを改めて思い出させてくれました。
それにしても、倒幕維新への対処から始まって共産主義の脅威への対処まで取り組まなければならなくなったところの、1922年まで生きた山県ももちろんそうですが、1919年まで生きた板垣は、なんとまあ濃密な人生を送ったことでしょうか。(太田)
(続く)