太田述正コラム#14276(2024.6.15)
<板垣退助『立國の大本』を読む(その11)>(2024.9.10公開)

 「・・・かの欧米白皙人種<(注11)>の亜細亜人種並に他の有色人種に対するが如き、其然るもの也。

 (注11)「白皙(読み)ハクセキ・・・皮膚の色の白いこと。・・・[初出の実例]「文珠大士緑髪白晢持二如意一握二経巻一」(出典:翰林葫蘆集(1518頃)九・題文殊画像)」
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 「白皙人種・・・[初出の実例]「黄色人種のみに限らずして、白晳人種も甚だ多きことなれば」(出典:読売新聞‐明治三三年(1900)九月二五日)」
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⇒当然のことながら、板垣が、「白皙人種」といった新しい言葉を、その晩年に至るまで身に付ける努力を続けたことが分かります。(太田)

 抑も彼等欧米白皙人種は革命によりて各々近世国家を形造りたるものにして、革命は即ち天賦人権の理に基くが故に、彼等は其主義として人類の平等なることを知らざるに非ずと雖も、其久しく得意盛満の境遇に在りて、其気驕りたる結果、自から世界の貴族を以て居り、遂に知らず識らず傲慢に流れて、不正不義の途に趨るに至りたる也。然れども彼等が曾て蒔ける真理の種子は成長して、今や世界の趨勢は平等主義の勝利に帰し、かの専制主義や階級制度は日に削弱せられて、其跡を絶ちつゝあり。

⇒イギリスは最初から議会主権なのであり、1642~1651年の清教徒革命は単なる内戦で、1688年の名誉革命は内戦ですらない、政変、だったのであって、その間、一貫して議会主権は堅持されましたし、イギリスは最初から個人主義社会だったので、階層はあっても階級はなく、また、天賦人権なるものとは無縁でした。
 欧州諸国は、このイギリスが、11世紀以降、本土を席捲されることなき強国であり続けたことから、このイギリスの文明(アングロサクソン文明)を、欧州のいくつかの主要諸国において、場合によっては複数回の革命を決行までして、継受しようとしたところ、十分な理解や受け入れ基盤なくしてそうしようとしたため、プロト欧州文明はアングロサクソン文明とは似て非なる欧州文明へと移行した、ということだったわけです。(コラム#省略)(太田)

 然るに此時に方りて彼等欧米の白皙人種が、独り世界の貴族を以て居り、濫りに人種上の差別を設けて、亜細亜人種並に其他の有色人種を侮慢し、不平等を以て之に対し、故なくして其領土を奪ひ、あらゆる凌辱を之に加ふるは、これ実に天地の公道に悖戻する者にして、予は之を以て人道の罪人と為し、鼓を鳴らして其罪を責めざる可らず。而して欧米白皙人種が斯の如く其得意盛満の勢に乗じて、自から不正不義の道に趨りつゝあるに反して、我が亜細亜人種は人種としては寧ろ他の圧迫を受けて、失意落莫の境遇に在るが故に、其世界に処するには正義公道によりて進むの外、別に道あること無く、而かもこの正義公道によりて進むこそ、実に孫子の所謂、不敗の地に立つて先づ勝つ可らざるを為し、以て敵の勝つべきを俟つ所以たるに外ならざる也。」(75)

⇒一見、インドのガンジーのようなことを板垣が言っているところ、さすがにこれは、日蓮主義者としての彼の本心を隠蔽したプロパガンダでしょう。
 「不正不義」の強者相手に「正義公道」だけで弱者が勝てるわけがないからです。
 第一、まさに、(幕府は強者ではあっても「不正不義」だったかどうかは微妙なところですが、)板垣退助は、西郷隆盛が事実上率いていた当時の薩摩藩の顔色をなからしめるほどの、「不正不義」・・テロを含む謀略・・の限りを尽くして、幕府を打倒した(コラム#12588)のですからね。(太田)

(続く)