太田述正コラム#14282(2024.6.18)
<大川周明『大東亜秩序建設/新亜細亜小論』を読む(その2)>(2024.9.13公開)

 「幕末日本の堕落・沈滞を、恐らく佐藤信淵ほど切実深刻に看取していた者はない。
 政治家の無能、町人の放肆<(ほうし)>、農民の困苦<(注2)>、一として彼の心を痛ましめざるはなかった。

 (注2)「化政文化とは,19世紀前半,文化・文政期の文化現象をいう。従来は,その退廃性が強調されたが,近年ではこの時期に,江戸を中心に都市的・大衆的な文化が形成されたとし,しかもそれは地方をも巻き込んで展開したところから,近代を用意する国民文化の形成を促進したと積極的な評価が与えられている。・・・
 〈江戸っ子〉たちはみずからが都会の住人であることを強く自覚し,田舎風の野暮を嫌悪するとともに,粋(すい),いき,通(つう)といった独自の美意識を育て,彼らの文化に高度な洗練をもたらした。化政文化に濃厚な都市的な性格が指摘されるゆえんである。・・・
 文化の大衆化は,都市という環境と深くかかわっており,化政文化に都市性を付与する要因の一つともなった。・・・
 園芸に限らず,江戸の大衆はなんらかの遊芸にたずさわっており,しかも分野によっては早くも女性の参加がみられた。このような遊芸人口の増大が,それらに技術を教える町の師匠たちの生活を支え,さらにそれらを組織する機構としての18世紀に整備された家元制度をいっそう充実させる結果をもたらした。・・・
 地方と都市との文化的な連携は国内における文化の平準化をもたらし,近代的な国民文化形成の基盤をかたちづくるものであった<。>・・・
 文化における世俗化の現象は,同時代の人々の生活態度そのものの世俗化に裏づけられており,世事への関心,さらに彼らの現実に対する客観的な認識にまでつながるものであった。」
https://kotobank.jp/word/%E6%96%87%E5%8C%96%E6%96%87%E6%94%BF%E6%99%82%E4%BB%A3-128373

⇒佐藤信淵が実際に書いた内容が分からないけれど、仮にこれが、その内容の的確な紹介であったとするならば、「注2」に照らし、実態の歪曲、ないしは誇張、があったことは否定できなさそうですね。(太田)

 彼はまた当時の何人よりも善く西洋諸国の富強を熟知していた。
 さればこそ彼は・・・西欧文明の摂取のために蘭学に刻苦すること前後8年の長きに及んだ。」(14)

⇒「佐藤信淵<は、>・・・出羽国雄勝郡に・・・民間にあって医業を生業としていた<が、>・・・4代にわたって農学や鉱山学など実学研究に<も>たずさわった一家<に生まれ、>・・・蘭学・本草学を宇田川玄随,儒学を井上仲竜,天文地理を木村泰蔵に学ぶ」
https://kotobank.jp/word/%E4%BD%90%E8%97%A4%E4%BF%A1%E6%B7%B5-69330
という人物ですが、彼の蘭学の先生であったことになっている宇田川は、「代々江戸詰の津山藩医を務める家系に生まれ<、>元来は漢方医であったが、杉田玄白・前野良沢らと交流するうちに蘭学へと転向し、大槻玄沢の芝蘭堂で学<んだ、>・・・医学者、蘭学者」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E7%94%B0%E5%B7%9D%E7%8E%84%E9%9A%8F
であるところ、この宇田川は、「美作国津山藩の藩医であっ<て、>・・・25歳<の時に、>・・・江戸・・・京橋柳町で医業を始め<、>翌年には結婚、さらに次の年には母を江戸に呼び寄せた・・・が、生活は必ずしも楽ではなかったようであ<り、>母の死去後は大豆谷に引きこもり、医業のかたわら、農業を営んだといわれる<生活を>・・・39歳<まで送った>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E4%BF%A1%E6%B7%B5
というのですから、佐藤が宇田川にも学んだ理由が、医学の習得にもあったことは紛れもないのであって、大川のように、佐藤について、その蘭学習得ばかりをプレイアップするのは考えものです。(太田)

(続く)