太田述正コラム#14284(2024.6.19)
<大川周明『大東亜秩序建設/新亜細亜小論』を読む(その3)>(2024.9.14公開)

 「・・・佐藤信淵が支那の『併吞』を主張したことは、恐らく支那人の耳に快く響かないであろう。しかも信淵の大陸政策または領土拡張論は、近代欧米資本主義国家の無理想なる植民地征服主義と、全くその本質を異にしている。彼の至心に志せるところは『世界万国の蒼生を救済すべき産霊の教』を以て、天下の民草の苦しみを救うことに外ならなかった。ゆえにその併吞とは、支那を日本と同様なる政治体制の下に置き、『昊天<(こうてん)>の神意を奉り、食物衣類を豊かにし黎民を安んずるの法』によって、万世人君の模範たる『堯舜の道』を実現するという意味であった<(注3)>。

 (注3)「<支那の>10世紀以前の各人産出額(=一人あたりGDP)を450ID,宋代以降は一人あたりの収入が 1/3 増加し(特段の数値的根拠はない),収入水準を産出額と等価とするならば,以後19世紀まで 600IDのレベルで推移したとする・・・グローニンゲン大学のアンガス・=マディソン」
http://www.law.osaka-u.ac.jp/~c-forum/box2/dp2014-4taguchi.pdf

⇒「食物衣類を豊かにし黎民を安んずる」とは、すなわち、一人当たりGDPの増大を図る、ということであり、そこには、理念などありません。
 欧米諸国と佐藤の違いは、欧米諸国が自国民の一人当たりGDPの増大を図るために非欧米地域の併呑を追求していたのに対し、佐藤が日本は(日本以外の)非欧米地域の一人当たりGDPの増大を追求するために非欧米地域の併呑を追求すべきだとした点にあるけれど、こんな違いは、併呑される非欧米地域からすれば、かつまた、客観的にも、およそ違いとは言えないでしょう。(太田)

 彼は永眠の前年に『存華挫狄論』の一書を著している。この書はその題名が既に物語る如く支那を存して狄を挫くべきことを高調せるものにして、狄とは取りも直さずイギリスを指せるものである。

⇒狄=北狄、で、清(女真)もムガールも狄であることから、イギリスをあえて形容するのなら、狄ではなく、西戎=戎、でしょうか。(太田)

 彼は英国がモーガル<(ムガール)>帝国を亡ぼして印度を略取し<(注4)>てより、更に侵略の歩武を東亜に進め来り、遂に阿片戦争の勃発を見るに至ったが、もし清国にしてこの戦敗に懲り、大いに武備を整えて失地を回復すればよし、然らずして今後益々衰微するならば、禍は必ず吾が国に及ぶであろうと洞察し、支那を保全強化して英国を挫き、日支提携して西洋諸国の東亜侵略を抑えねばならぬと力説したのである。彼のいわゆる併吞が、決して侵略征服の意味でないことは、之によって観るも明瞭であろう。」(15)

 (注4)’India producing about 28% of the world’s industrial output up until the 18th century. While at the start of 17th century, the economic expansion within Mughal territories become the largest and surpassed Qing dynasty and Europe・・・by 1700s, Mughals had approximately 24 percent share of world’s economy. They grew from 22.7% in 1600, which at the end of 16th century, has surpassed China to become the world’s largest GDP.’
https://en.wikipedia.org/wiki/Economy_of_the_Mughal_Empire

⇒いや、「侵略征服」以外の何物でもありません。
 なお、北狄による支那支配が清、北狄によるインド支配がムガール帝国、だったわけですが、前者では引き続き一人当たりGDPの(絶対的)停滞が続いたのに対し、後者では(「注4」から)一人当たりGDPが(世界経済が伸びている中でそれ以上に)伸び続けた、というのは面白いですね。
 インド統治がイギリスによるものに代わるとインドは後進国に転落してしまいますが、イギリスによる支那統治が実現していた場合、支那がどうなったかは興味があります。(太田)

(続く)