太田述正コラム#14288(2024.6.21)
<大川周明『大東亜秩序建設/新亜細亜小論』を読む(その5)>(2024.9.16公開)
「・・・さればこそ明治維新の志士は、尊王攘夷の兵庫の下に、日本の革新と亜細亜の統一とを、併せて同時に理想とした。
⇒これぞまさに、典型的な帝国主義ってやつです。(太田)
吉田松陰は久坂玄瑞に与えたる書簡の中に『蝦夷を墾き、琉球を収め、朝鮮を取り、満州を拉し、支那を抑え、インドに臨み、以て進取の勢を張るべし』と書送った。
真木和泉<(注6)>は大原三位〔重徳〕に上りし献策および西郷南洲に送りし書簡の中に、日本は朝鮮・琉球を版図に収め、満州・清国を外藩とし、以て欧米の侵略に当らねばならぬと述べている。
(注6)1813~1864年。「久留米水天宮祠官、久留米藩士<。>・・・
真木は、開明派の橋本左内や横井小楠、近代国家への展望を持った倒幕派の大久保利通、坂本龍馬などと比べ、西洋事情に対する洞察も知見も乏しかった。その思想は観念的な攘夷論で「我が国は神州であり、たとえ国土・民族が滅亡することがあろうともあくまでも攘夷を断行すべきである」という偏狭な国粋主義に留まった。膨大な政治改革建策も名分を正すための施策が大多数を占め、具体的内容に至っていなかった。真木の掲げた「倒幕、そして王政復古」は封建国家から近代国民国家をめざしたものではなく、庶民から見れば支配者が将軍から天皇に入れ替わるだけの事であったが、明治維新の大義名分として大いに活用された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E6%9C%A8%E4%BF%9D%E8%87%A3
平野二郎<(注7)>は島津久光に上りし『尊攘英断録』において、同様の意見を烈々火の如き文章を以て高調している。・・・」(16~17)
(注7)平野国臣(次郎。1828~1864年)。「福岡藩士<。>・・・尚古主義(日本本来の古制を尊ぶ思想)に傾倒する。・・・西郷隆盛ら薩摩藩士や真木和泉、清河八郎ら志士と親交をも<った。>・・・
1859年・・・村田新八・有馬新七らの手引きで薩摩へ入ることに成功するが、国父・島津久光は浪人を嫌い、精忠組の大久保一蔵も浪人とは一線を画す方針で、結局、国臣は退去させられることになった。・・・
<1861年?、>国臣は鹿児島に潜入。大久保に『英断録』を差し出した。大久保は金10両を旅費として与えて帰還させた。薩摩滞在中に村田新八、美玉三平ら急進派と会談し、一挙の成功を確信した。国臣が肥後へ戻ると「島津久光が討幕の兵を挙げる」との噂が広まった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%87%8E%E5%9B%BD%E8%87%A3
「1862年上洛する久光を擁して義挙しようと福岡藩主黒田長溥(鹿児島藩主島津重豪の9男)を説得するが、投獄され、出獄後、禁門の変で処刑された(1864年)。」
https://www.crossroadfukuoka.jp/spot/12318
⇒結局のところ、薩摩藩の大久保利通のような島津斉彬コンセンサス信奉者達が、他藩の単細胞の武士達のうち、平野国臣のような脱藩者を直轄鉄砲玉、真木和泉のような脱藩者や長州藩の吉田松陰に薫陶を受けた久坂玄瑞ら長州藩士達、ひいては最後の連中が乗っ取った長州藩そのもの、を遠隔操縦鉄砲玉として使って倒幕維新を成し遂げた、という図式になろうかと思います。
単細胞かどうかのメルクマールは、典型的な帝国主義者かどうか、でよろしいかと。(太田)
(続く)