太田述正コラム#14290(2024.6.22)
<大川周明『大東亜秩序建設/新亜細亜小論』を読む(その6)>(2024.9.17公開)

 「徳川幕府内部においても、有為の士が抱懐せる対外政策は、東亜の統一を積極的理想とせる点において、討幕志士と異なるところ無かった。
 後にいわゆる日本の大陸政策となりて現れ、遂に今日の大東亜共栄圏の建設にまで具体化された理念は、実に明治維新の前夜において、夙(はや)くも当時の先覚者によって把握されていたのである。・・・
 明治維新<後、>・・・攘夷は一朝の夢と消え去ったかの如く見えた。・・・
 しかしながら、攘夷の真個の意義は『万里の波濤を拓開<(注8)>し、国威を四方に宣布し、天下を富嶽の安きに置かん<(注9)>ことを欲す」と宣える明治元年の大詔<(注10)>において、最も適切に言い尽くされている。・・・

 (注8)開拓。
https://kotobank.jp/word/%E6%8B%93%E9%96%8B-2844793
 「開拓<には、>・・・領土を広めること<という意味もある。>」
https://kotobank.jp/word/%E9%96%8B%E6%8B%93-457906
 (注9)「富岳/富嶽(ふがく) とは・・・富士山の異称。」
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%AF%8C%E5%B2%B3/
「泰山の安きに置く・・・とは<、>・・・泰山のように、どっしりと安定させる<こと>。」
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%B3%B0%E5%B1%B1%E3%81%AE%E5%AE%89%E3%81%8D%E3%81%AB%E7%BD%AE%E3%81%8F/
 (注10)「<1868年4月6日、>五箇条誓文と同時に国民一般に対する「御宸翰」が示されました。
 宸翰とは、天皇自筆の書簡のことです。詔は公表される天皇の声明、勅は天皇の命令です。宸翰は私信であることが多く、本来は公表されるものではありませんが、内容が一般国民を意味する「汝億兆」に対して呼び掛けるものなので、実質的には詔だといえます。・・・
 朕幼弱を以て猝に大統を紹ぎ爾来何を以て万国に対立し 列祖に事へ奉らんと朝夕恐催に堪へざるなり窃に考るに中葉 朝政衰てより武家権を専らにし表は 朝廷を推尊して実は敬して是れを遠け億兆の父母として絶て赤子の情を知ること能はざるやふ計りなし遂に億兆の君たるも唯名のみに成り果其が為に今日 朝廷の尊重は古へに倍せしが如くにて 朝威は倍衰へ上下相離るゝこと霄壌の如しかゝる形勢にて何を以て天下に君臨せんや今般 朝政一新の時に膺り天下億兆一人も其処を得ざる時は皆 朕が罪なれば今日の事 朕自身骨を労し心志を苦め艱難の先に立古 列祖の尽させ給ひし蹤を履み治跡を勤めてこそ始て 天職を奉じて億兆の君たる所に背かざるべし往昔 列祖万機を親らし不臣のものあれば自ら将としてこれを征し玉ひ 朝廷の政総て簡易にして如此尊重ならざるゆへ君臣相親しみて上下相愛し徳沢天下に洽く国威海外に輝きしなり然るに近来宇内大に開け各国四方に相雄飛するの時に当り独我国のみ世界の形勢にうとく旧習を固守し一新の効をはからず 朕徒らに九重中に安居し一日の安きを偸み百年の憂を忘るゝときは遂に各国の凌侮を受け上は 列聖を辱しめ奉り下は億兆を苦めん事を恐る故に 朕こゝに百官諸侯と広く相誓ひ 列祖の御偉業を継述し一身の難難辛苦を問はず親ら四方を経営し汝億兆を安撫し遂には万里の波濤を拓開し国威を四方に宣布し天下を富岳の安きに置んことを欲す汝億兆、旧来の陋習に慣れ尊重のみを 朝廷の事となし 神州の危急をしらず 朕一たび足を挙れば非常に驚き種々の疑惑を生じ万口紛紜として 朕が志をなさゞらしむる時は是れ 朕をして君たる道を失はしむるのみならず従て 列祖の天下を失はしむるなり汝億兆能々 朕が志を躰認し相率て私見を去り公義を採り 朕が業を助て神州を保全し 列聖の神霊を慰し奉らしめば生前の幸甚ならん

御宸翰之通広く天下億兆蒼生を 思食させ給ふ深き 御仁恵の 御趣旨に付、末々之者に至る迄敬承し奉り心得違無之 国家の為に精々其分を尽すべき事
三月               
総裁
補弼」 
https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/162179/

 かくて攘夷の積極的半面即ち国威宣布の理想は、大陸政策の名の下に着々実現されていった。」(16~17)

⇒五か条の御誓文の陰に隠れて言及されることが少ない宸翰なので、「注10」で全文を掲げておきましたが、大川の言うように、「徳川幕府内部においても、有為の士」・・遺憾ながら大川は具体的個名を上げてくれていません・・は単なる帝国主義を抱懐していたというのが正しいとすれば、いや、正しいからこそ、勝と西郷の間で江戸開城の交渉が妥結して官軍による江戸総攻撃が中止となったその日
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E8%BE%B0%E6%88%A6%E4%BA%89
に発翰された以上、形式的な名宛人は「汝億兆」だが実質的な名宛人は幕府側の有為の士達だったのであって、その目的は彼らの懐柔にあって、単なる帝国主義政策を一緒にやろうと彼らに呼びかけた、と、考えざるをえません。
 大川は、この宸翰の内容が新政府の真意であると見ているわけですが、新政府を取り仕切っていたのは私見では日蓮主義者達にして島津斉彬コンセンサス信奉者達であった以上、そんなわけがない、と、いうことです。
 とまれ、我々は、この懐柔策も結局功を奏さず、戊辰戦争が、翌1869年6月27日まで、更に1年超も続いた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E8%BE%B0%E6%88%A6%E4%BA%89
ことを知っています。(太田)

(続く)