太田述正コラム#14294(2024.6.24)
<大川周明『大東亜秩序建設/新亜細亜小論』を読む(その8)>(2024.9.19公開)

 「その大西郷が征韓論に敗れて薩南に帰臥せるころ、年少海軍士官曾根俊虎<(注12)(コラム#9902)>は、フランスの安南に対する野心を看取して、同志を糾合して興亜会を起し、一身を比国のために抛(なげう)たんとした。・・・

 (注12)1847~1910年。「出羽米沢藩(山形県)藩士の子。明治4年海軍にはいり,6年副島種臣にしたがい清・・・にいき,のち上海に駐在。海軍大尉。19年「法越交兵記」をあらわし,安南(ベトナム)に対する政府の無関心な態度を批判し,免官・収監となる。のち無罪となるが海軍を辞し,<支那>問題を研究した。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9B%BE%E6%A0%B9%E4%BF%8A%E8%99%8E-1086143
 「島国の海の向こうで西洋植民地主義国家の横暴は酷い、もうそこまで侵略の手が来ている、同じアジア人のベトナムも清国も悲惨だ、日本も早くしないと大変だ<という内容の>・・・漢文<で書かれた>・・・『法越交兵記』<だったが、>・・・当時条約改正を間近にした日本政府の欧米列強への思惑と、対清国との朝鮮問題にかかわる外交上のなりゆきから<起訴されたもので、>・・・<この本は、>「熾仁親王の御序辞《彰往察来》を賜っ」<てい>た為、「表立って非難出来ぬ」ので判決文には「官吏の職務に侮蔑したり」とだけ書いてある<。>」
https://note.com/gayuko_lion123/n/nd546c4bcfc99

⇒曾根は、日蓮主義藩へと復帰していた幕末の米沢藩(コラム#14163)で人となった人物であり、彼自身が日蓮主義者だったからこそ、興亜会を起し、アジア主義を追求した、と、言ってよいでしょう。(太田)

 明治19年、同志30余名と共に支那において活動を始めた荒尾精<(注13)(コラム#14163)>が、その本拠たる漢口楽善堂の二階に掲げたる綱領は、下の如きものであった。

 (注13)1859~1896年。「尾張藩士・・・の長男<。>・・・陸軍軍人<。>・・・彼の死後設立された東亜同文書院の前身となった<ところの、>・・・日清貿易研究所の設立者。日清戦争の最中、「対清意見」「対清弁妄」を著し、清国に対する領土割譲要求に反対した。日中提携によるアジア保全を唱えた明治の先覚者である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E5%B0%BE%E7%B2%BE
 『対清意見』の全文。↓
https://dl.ndl.go.jp/pid/785593/1/55

 –『吾党の目的は、東洋永遠の平和を確立し、世界人類を救済するにあり。その第一着手として支那改造を期す』・・・」(18~20)

⇒荒尾は、日蓮主義藩の尾張藩で少年期を過ごし、維新後は、陸軍で日蓮主義を再注入されたと想像される日蓮主義者である、と言ってよさそうであり、日蓮主義者であっても支那を辱めるために領土割譲要求等を追求する者が主流であったのに対し、荒尾はそうではなかったのであり、彼もまた、理念を直接語ったことがなさそうではあるものの、彼の場合、語る必要はなかったのです。
 というのも、(曾根もそうでしたが、)荒尾精は、兵法三十六計に言う遠交近攻策(注14)・・欧米諸国中の例えば英国と組んでそれ以外の欧米諸国の日本侵略を防ごうとしたのではなく、かと言って、単なる近交遠攻策を唱えたのでもなく、近くの支那を支援して強大化させる・・私の言葉で言えば支那に縄文的弥生性を醸成させるですが・・ことでもって、日本と支那双方の安全保障に資すべきである、という趣旨のことを、『対清意見』の中で説いているからです。

 (注14)「<支那>の戦国時代では諸国は絶えず戦争を続けていたが、多くの国々が分立していたため、一国を攻める場合には複数の国々が同盟を組み、攻める国を二正面戦争状態にさせ、一国を攻めた後に得られた戦果は分担するのが慣わしであった。・・・通常その場合に同盟相手として選ばれるのは自国と隣接した国であった。しかし近隣の同盟国と共同して遠方の他国に攻め込み、そこから領地を得られたとしても、それは飛び地となってしまう場合が多い。このため領地の維持が難しく、結局はすぐまた領地を取り返されてしまっていた。・・・
 范雎<(はんしょ)>は・・・范雎は・・・秦<の>・・・<始皇帝の曽祖父の>昭襄王に仕えて遠交近攻を説いた。すなわち、遠い国と同盟を組んで隣接した国を攻めれば、その国を滅ぼして領地としても本国から近いので防衛維持が容易である。この方策に感銘を受けた昭襄王は范雎を宰相にして国政を預けた。遠い斉や楚と同盟し、近い韓、魏、趙を攻めた秦は膨張を続け、やがて六国を平定して<支那>の統一を成し遂げた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E4%BA%A4%E8%BF%91%E6%94%BB

 これぞまさに、私の言う、人間主義を(曾根や)荒尾は実践した、ということであり、そのことは、分かる人には分かったはずです。
 ですから、誰かが、(曾根や)荒尾に、道義とは何か、と尋ねれば、人間主義に相当する答えが返ってきたに違いありません。
 それにつけても、「人としての道」(道義)について語った、西郷、の考えの陳腐さ、あえて言えば人間主義への無関心さ、は、私には衝撃的でした。
 西郷こそ、討幕維新の最大の黒幕であったことは確かながら、彼、人間主義に、ということは、日蓮主義にも、関心がなかったとなると、島津斉彬コンセンサスも、一種の台本として丸暗記して、当時、俳優のように演技を続けただけであって、同コンセンサスの理念(劇の狙い)なんぞ全く理解していなかったのではないか、という気がしてきました。
 仮にそうだったとすれば、維新後の、「富国」そっちのけの「強兵」の主張、それが容れられず拗ねての鹿児島引きこもり、その当地での「外征を行うための強固な軍隊を創造することを目指していた・・・私学校」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%8D%97%E6%88%A6%E4%BA%89
の創設・運営、大量道連れ自殺的な西南戦争の決行、といった、彼の愚行のオンパレードの説明がつきそうですね。(太田)

(続く)