太田述正コラム#14296(2024.6.25)
<大川周明『大東亜秩序建設/新亜細亜小論』を読む(その9)>(2024.9.20公開)
「それゆえに変法自強<(注15)>の運動が支那に起った時も、また滅満興漢<(注16)>の革命運動が起った時も、日本は満腔の同情を以て之を援けた。
(注15)「日清戦争の敗北により、・・・康有為・梁啓超・・・らは制度を改革し富国強兵を図るため、保国会を組織し、憲法制定・国会開設・学制改革などを提唱。光緒帝はこれをうけ、一八九八年、具体化に着手した(百日改革)が、西太后を中心とする保守派によって阻まれた(戊戌の政変)。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%89%E6%B3%95%E8%87%AA%E5%BC%B7%E9%81%8B%E5%8B%95-868602
(注16)「清朝は、人口の大部分を占める漢民族を満洲族が支配していた。清初以来、秘密結社の間に、満洲族の国家である清に反対し、漢民族の国家であった明(みん)を復興させようとする「反清復明」のスローガンが伝えられてきたが、19世紀中ごろの太平天国はこれを発展させ、満洲族を滅ぼし漢民族を復興しようとする「滅満興漢」のスローガンを提唱した。さらに清末、革命運動が起こると、引き続いて「滅満興漢」は基本的目標とされた。1905年結成の中国革命同盟会の綱領にも「駆除韃虜(くじょたつりょ)、恢復中華(かいふくちゅうか)」とあるが、これも内容は「滅満興漢」と同じである。」
https://kotobank.jp/word/%E6%BB%85%E6%BA%80%E8%88%88%E6%BC%A2-1600139
⇒まさに、日本の日蓮主義新政府が、「支那を辱める」ことを最大の目的として行った日清戦争がそれなりに功を奏したように見えたけれど、辱め方が不十分だったため、最大の目的の達成は、取敢えずは完全な失敗に終わったわけです。(太田)
その援助は、支那の復興を切望する以外、また他意〔は〕なかった。
而して支那の復興を切望せるは『偕(とも)に手を携えて東洋保全の事に従う』ためであった。
明治29<(1896)>年、密かに横浜に亡命し来れる無名の孫文を、如何に日本は温かに庇護したか。
⇒しかし、その前年に、「1895年(明治28年)4月17日に調印された日清講和条約の中で、日本は李氏朝鮮の独立を清国に認めさせた。また台湾、澎湖諸島、遼東半島を割譲させ、賠償金として2億両(1両=銀37g)が支払われた他、日本に対する最恵国待遇も承認させた。講和直後の23日に露仏独三国の外交要求が出された事で、日本は止む無く遼東半島を手放した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%B8%85%E6%88%A6%E4%BA%89
ところ、日本は賠償金や最恵国待遇の獲得はさておき、清の領土の割譲までさせており、日本が、「支那の復興を切望する」だの「偕に手を携えて東洋保全<したい>」といくら言ったとて、孫文を含む大部分の支那人はホンネでは聞く耳なぞ持たなかった筈であろうところ、それくらいのことが分からぬ大川ではあるまいに、何の注釈も付けずにこういうことを書いたというのは、むしろ、大川自身がそんなことを全く信じていないところの、単なる帝国主義者だったからでしょう。(太田)
中山という彼の号さえも、当時横浜より彼を東京の旅館に案内し来れる平山周<(注17)>が、途上中山侯爵邸前を過ぎたるより思いつきて、仮に宿帳に書きたるに由来せるものである。」(20)
(注17)1870~1940年。「筑前国夜須郡(現在の福岡県筑前町)出身。東洋英和学校卒業後、宮崎滔天・・・の同志としてアジアの反植民地民族運動を支援した。
パークナム事件(1893年)に端を発する「シャム開拓移民計画」が起こると滔天とともにこれに参加、その後孫文を支持、明治30年(1897年)に孫文が日本に逃れた際には、平山の家庭教師の名目で入国させたと言われている。
1898年、清・・・での戊戌政変に際しては梁啓超に同行して彼の日本亡命を助け、翌1899年にはフィリピン独立革命を支援するために現地に渡航した。1900年に孫文派の革命党が武装蜂起した恵州起義では滔天とともにこれを支援。
明治39年(1906年)、宮崎滔天、和田三郎(板垣退助の秘書)、萱野長知らと革命評論社を設立。『革命評論』を創刊して、孫文の辛亥革命の支援を加速させた。
明治44年(1911年)に『支那革命及び秘密結社』を公表するなど、一貫して中国の革命運動を支援した。昭和6年(1931年)には南京国民政府から陸海空軍総司令部顧問に迎えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B1%B1%E5%91%A8
(続く)