太田述正コラム#14312(2024.7.3)
<大川周明『大東亜秩序建設/新亜細亜小論』を読む(その17)>(2024.9.28公開)

 「・・・英米は日本に対して何を為したか。・・・
 英国外務省情報部長たりし「サー・アーサー・ウィラート<(注34)>は共著『世界における英帝国』において、実に下の如く公言している–『世界戦の清算は、日本の場合においては二度行われた。即ちパリ講和会議とワシントン会議とにおいてである。ワシントン会議は、英米全権の指導の下にしかも英米外交関係史上未だかつて見ざるほどの緊密・完全・効果的なる共同動作によって、英米および英米の理想にかなう如く極東を処理した。日英同盟も葬られた。英国は最早ドイツ海軍の脅威を受けなくなったので、この同盟を葬り去って米国の甘心を買うを得た。巧妙なる談判によって徐ろに加えられたる英米の重圧の下に、日本は支那における自国の地位の解消を諦めた。山東における日本の特殊権益は放棄させられた。而してその上に主力艦に対する五・五・三比率の海軍力制限を受けた。精神的にも物質的にも、』ワシントン条約は、2個の友邦が1個の第三国に与え得る限りの最大の打撃を日本に与えたるものである』と。

 (注34)Sir Arthur Willard, Director of the Press Section of the Foreign Office
https://archives.ungeneva.org/informationobject/browse?names=46268&levels=47053&subjects=978&sort=alphabetic&sortDir=asc&showAdvanced=1&topLod=0

 まさしくこの言葉の通りである。

⇒英外務省の「情報」部局にアーサー・ウィラートなる人物がいたことがあるのは事実のようですが、それ以上のことは調べがつきませんでした。
 大川が引用した通りのことをその人物が書いていたとすれば、いささか出来過ぎた話ではあります。
 いずれにせよ、当時の日本人は、こういうことを大川のような(私見では杉山元らに操られていた)「識者」達を通じて聞かされ、憤激し、政府に、対欧米強硬姿勢をとるよう求めていくわけです。(太田)

 しかも英米はこれを以てしてもなおかつ満足せず、ロンドン会議によって一層深刻なる打撃を日本に加えた。・・・
 世界戦における連合国側の勝利は、日本の参戦に負うところ最も大なりしに拘らず、一旦戦争終るや日本を第二のドイツと唱えて一切の抑圧を敢てしたのであるが、日本は啻(ただ)にその忘恩不信に対して反撃を加えざりしのみならず、却って益々英米の甘心を買わんと務めた。
 現に大正13<(1924)>年初頭、加藤高明伯を首班として成立せるいわゆる護憲三派内閣の外務大臣は、就任当日のステートメントにおいて、実に下の如く声明した–『自分の外交方針は、ヴェルサイユ条約およびワシントン条約に体現せられている国際正義の支持徹底にある』と。
 この声明は端的に英米の世界制覇を以て国際正義と認めたるものである。

⇒大川は、当時の日本の世論の軍縮ムード、反軍感情
https://chronicle100.waseda.jp/index.php?%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%B7%BB/%E7%AC%AC%E5%85%AD%E7%B7%A8%E3%80%80%E7%AC%AC%E5%8D%81%E4%BA%8C%E7%AB%A0
に意図的に言及していませんが、実際に大幅な陸海軍軍縮を止む無く行いつつあった中、加藤内閣としては、そういう声明を出して辻褄合わせをするほかなかったということでしょう。
 有り体に言えば、日本に力がないのだから、力ある米英の言うことを聞くしかなかったわけです。(太田)

 イギリスの外交官が、日本に対して与え得る限りの最大の打撃を加えたと公言して憚らざるワシントン諸条約を以て、国際正義を体現せるものとし、あくまでも之を支持徹底させるというのである。
 かかる声明が英米を欣ばせたことは言うまでもない。
 さればこそウィラートは、前述の著書の中に『ワシントン会議以後の数年間、日本は実に模範的に善良なる世界の市民であった』とほめそやしている。
 独りウィラートのみならず、米国のスティムソンも『ワシントン会議より満州事変に至る10年間、日本政府は国際団体において例外に善良なる市民としての記録を有する』と言っている。・・・
 日本のかくの如き態度は、必然支那の軽侮・反抗を招いた。

⇒こういう、日本政府、就中、陸海軍の窮状を救ってくれそうだったのが、明治維新以来行ってきたところの、支那辱め政策がようやく功を奏してきて、支那人達の反日感情が亢進してきていたことだったわけです。(太田)

 而して日本は支那の抗日・侮日に対し、常にいわゆる親善政策を以て臨んだのであるが、如何に日本が親善を標榜しても、支那の敵意は益々つのるばかりであった。
 この排日運動の背後に、英米の扇動ありしことは言うまでもない。

⇒中らずと雖も遠からずであり、この「事実」が、やがて、支那人の反日への反発を米英への反発へと日本の世論を導いていくことになるのです。
 満を持した杉山構想の登場まで後ひと時です。(太田)

 加うるにワシントン会議の翌年、即ち大正12年に関東大地震あり、日本の国力は半減し去れるかの如く伝えられたので、日本に対する世界の軽侮は一層甚だしきを加えた。」(34~36)

⇒典拠を付してくれれば良かったのですが、そうだったとしても驚きませんね。(太田)

(続く)