太田述正コラム#14316(2024.7.5)
<大川周明『大東亜秩序建設/新亜細亜小論』を読む(その19)>(2024.9.30公開)
「・・・満州事変における神速果敢なる関東軍の行動は、英米の最も意外とせるところである。
そは模範的良民としてあるまじき振舞である。
日本政府は必ず満洲に「おける軍事的行動を制止するであろう。
英米は正直にこの通り考えていた。
当時のアメリカの国務長官スティムソン<(注37)>はその日記に下の如く書いている。
(注37)Henry Lewis Stimson(1867~1950年)。「マサチューセッツ州アンドーヴァーのフィリップス・アカデミーとイェール大学(1888年に卒業した。)で教育を受け<、>・・・ハーヴァード・ロースクールを卒業した。・・・フィリピン総督、国務長官<、>陸軍長官・・・を歴任した。保守的な共和党員であり、ニューヨーク市の弁護士でもあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%A0%E3%82%BD%E3%83%B3
曰く『日本の外務大臣は、日本の国家主義の焔(ほのお)を消し止め、日本をして九箇国条約およびケロッグ条約<(注38)>に忠実ならしめるであろう』と。
(注38)「不戦条約(・・・(戰爭抛棄ニ關スル條約)は、第一次世界大戦後に締結された多国間条約で、国際紛争を解決する手段として、締約国相互で戦争の放棄を行い、紛争は平和的手段により解決することを規定した。パリ条約(協定)、パリ不戦条約、ケロッグ=ブリアン条約(協定)とも言う。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E6%88%A6%E6%9D%A1%E7%B4%84
彼は堅くこのことを信じたるがゆえに、支那が折柄開催中なりし国際連盟に満洲事変を提訴し、連盟事務総長ドラムモンド<(注39)>よりアメリカに対して、米国は満州事変に対するケロッグ条約の適用について如何なる意向を有するかと打診し来れる時にも、彼は『日本の国民的感情を刺激して、日本国民に軍部を支持せしめ、かつ幣原〔喜重郎〕外相を苦境に陥れる如き行動は、之を避けることが賢明である〕と答えている。」(42)
(注39)ジェームズ・エリック・ドラモンド(James Eric Drummond, 7th Earl of Perth。1876~1951年)。「スコットランド貴族<。>・・・ドラモンドはプロテスタントの家庭で育ったが、1903年にカトリックに改宗した。このことは、1933年頃に、駐米大使候補だったドラモンドに対してラムゼイ・マクドナルド首相が拒否権を行使するなど、後のキャリアに支障をきたしたと言われている。ドラモンドが改宗したのは、カトリック教徒のアンジェラ・メアリー・コンスタブル=マクスウェル(1877年-1965年)と結婚するためと推測される。
ドラモンドはイートン・カレッジで教育を受け、1895年に卒業し<、>・・・外交官として・・・19年間の外務省勤務<歴があった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%89_(%E7%AC%AC7%E4%BB%A3%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%B9%E4%BC%AF%E7%88%B5)
⇒スティムソンや当時彼が長官をしていた米国務省が、日本を含め、東アジアのことがまるで分かっていなかったことは明らかですね。
このような、米国指導層の東アジア認識のお粗末さやイギリスのホールデンによるところの、次の大戦がそう遠くないとの予言、等は、さぞかし、当時の日本の日蓮主義中枢をほくそ笑ませると共に奮い立たせたことでしょう。
彼らの観点からの最終戦争を決行しなければならない絶好の時期が近づいてきた、と。(太田)
(続く)