太田述正コラム#14318(2024.7.6)
<大川周明『大東亜秩序建設/新亜細亜小論』を読む(その20)>(2024.10.1公開)

 「しかしながら如何にスティムソンが日本外務省を信頼しようとも、久しく抑えられてきた日本の国民的感情は、既に上る潮の如くに昂まり、国家主義の炎々たる焔は、最早外務大臣の手によって消し止むべきもなかった。
 かくて事態は益々英米の欲せざる方向に進み、彼らにとりては『不快なるニュース』のみが次々に伝えられていった。」(42)

⇒単なる帝国主義者たる大川もまた、当時の日蓮主義中枢によって鉄砲玉として利用されていただけの存在だった、というのが私の認識であるわけですが、彼もまた、当時の日本の外務省や海軍同様、英米一体論を当然視していたことが分かります。
 実際には、第一次世界大戦参戦を米国が躊躇し続けたのは、ドイツを叩き潰すことが英帝国主義の存続・強化に繋がりかねないことへの憂慮からだった(注40)くらい、英米間の離隔は甚だしかったというのに・・。

 (注40)’Many British leaders might sincerely believe that the British Empire was a great civilising force and a source of world stability, but Wilson made it abundantly clear that he was not expending the life of one American soldier to protect or expand Britain’s imperial possessions. ‘
https://rusi.org/explore-our-research/publications/commentary/anglo-american-co-belligerency-1917-1918


[日英同盟終了]

 「第一次大戦が終結した翌年の1919年、パリで開かれた講和会議で日本が有色人種を代表して人種差別撤廃案を提案すると、多くの植民地を抱える英国との間に亀裂が生じた。それに付け込んだのが米国で、巧みに日英を外交的に分断させた。

⇒いかにもさにあらんだが、「付け込んだ」典拠を!(太田)

 そして米国は1921年、ワシントンに主要9カ国を集めた海軍軍縮会議を開催し、太平洋諸島の非要塞化などを取り決めた米英日仏が、<1921年12月に>米国の思惑通りに四カ国条約を締結した。この四カ国条約締結により、1902年に調印され、その後、第2次(05年)、第3次(11年)と継続して更新された日英同盟に終止符が打たれたのだった。

⇒この時点で、山縣有朋はまだ存命(翌1922年2月死去)であり、1921年11月4日の原敬首相暗殺事件を受けて、次期首相について、西園寺公望が小田原で静養中の山縣を訪問して協議をしている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E6%9C%9B
が、併せて、日英同盟終了の可否についても協議がなされた、と、私は想像している。
 (そもそも、後任首相を誰にするかよりも、日本の命運に関わる日英同盟解消の是非の方がはるかに重要な話であることに注意。)
 その上で、彼ら、日蓮主義中枢は、いずれ、対米英戦決行を目論んでおり、その時までに日英同盟を解消しておく必要があるところ、その良い機会が到来した、と判断し、解消させ、それに代わる日米英同盟的なものも締結しないことにした、と。(太田)

 そもそも共通の敵であったロシア帝国とドイツ帝国が消滅したこともあり、英国内で「日英同盟」更新に対する反対論が強まったことは否めない。加えて、第一次世界大戦で同盟の義務を超えて第二特務艦隊を地中海に派遣し、マルタを拠点に連合国軍の輸送と防衛に大きく貢献した日本の海軍に比べ、陸軍は英国からの強い要請に応じず、欧州方面へ部隊を派遣しなかったため、日英の不協和音が生じる要因となった。
 また、日本が<支那>に勢力を伸ばし、日英の利害対立が生じる可能性も出て来た。このため米国に莫大な戦費を負った英国では、米英関係の重要性が相対的に高まったのだ。英国は巨額の戦債が負い目となって兄弟国<?(太田)>、米国からの圧力に抗しきれなかった。世界覇権国が英国から米国に交代したと解釈していいだろう。

⇒ここもそうだが、典拠を!(太田)

 それでも英国の主要閣僚や陸海軍大臣や参謀総長まですべて同盟継続派だった。イアン・ニッシュ・ロンドン大学名誉教授 は、『日英交流史-1600-2000』第9章 同盟のこだま1920-1931年の日英関係)で、「日英同盟に関し、英国の閣僚は、現実主義者と自由主義や公開外交の信奉者とに分かれていた。ジョージ首相やバルフォアの後任として外相に就任していたカーゾン卿らの現実主義者は、第一次世界大戦での日本の貢献に感謝し、同盟継続に好意的だった。同盟に反対だったのは、開戦時の海軍大臣で軍需大臣などを経て植民地相になっていたチャーチルやリー海軍卿などで、彼らは米国との海軍協定を望み、米国の考えに影響されて中国やシベリアでの日本の活動に不満を抱いていた」と指摘している。
 大英帝国内で発言力を持つ自治領でも、米国と国境を接するカナダは米国の意向を優先させて同盟継続に反対だったが、豪州とニュージーランドは「東洋において最強の大国との同盟が何にも増して貴重である」と同盟継続に賛成していた。ジョージ首相がワシントン会議に出発する前の下院の演説で同盟継続を再確認したのも至極当然だった。
 ただニッシュ氏によると、「日露戦争後、主に満州での日本の行動を警戒する米国の干渉が強まり、日英両国にとって同盟はお互いよりも対米問題となっていた」(Alliance in Decline: A Study of Anglo-Japanese Relations 1908-23)。さらにニッシュ氏は、『日英交流史-1600-2000』で、「日英両国には似た目的があった。できれば同盟に米国を取り込むこと、それに失敗したなら、他の何らかの方法で米国の取り込みを実現することであり(中略)、結果としては、両国は米国とのより密接な関係のために相互の関係をあきらめた」と分析する。
 しかし、英国は、かつて自らが決定した日本との同盟政策を自分から終了させることには消極的だった。大英帝国の矜持だろう。日本が「同盟堅持」と言えば、英国から廃棄を言い出す状況ではなかったことは間違いなかった。
 ところが日本は、当時の立憲政友会の原敬及び高橋是清内閣は、英国の国際的地位の低下に伴い、対英協調よりも対米協調に傾き、積極的な「日英同盟廃棄」の意思はなかったが、さりとて「同盟継続」の強い意志を欠いていた。
 最終的に、原敬首相の信任厚く、ワシントン会議の全権を務めた駐米大使の幣原喜重郎が、英国側の“迷い”を断ち切る決断を下したという。日英同盟廃棄が日本の孤立を招いたことは論を俟(ま)たないが、2014年10月に逝去した外交評論家の岡崎久彦氏も、「あれは幣原の責任だろう。日本が廃止を望まなければ、イギリスは日英同盟を無理に廃棄しようとはしなかった」と述べている。
 確かに英国は当初、日英同盟の内容を実質的には変更せずに、米国を加えた「日英米三国協商」を提唱したが、幣原はこれを拒否して、同盟による“勢力均衡”と決別し、米国の理想主義的な原則に同調して四カ国条約を結んだ。日本外務省も、米国の主張を受けて四カ国条約に無定見に傾いた。米国の金融支配力に屈した英国は未練を残しながら日英同盟廃棄という歴史的な対米譲歩に踏み切らざるを得なかったのだ。
 なぜなら英国は日英同盟廃棄後も日本との良好な関係を続け、1930年代、独自に日本と中国の仲介役となり、財政改革や幣制改革を手がけようと、日本を締め上げる米国と一線を画していた。満州事変では、日英同盟廃棄に賛成したチャーチルはじめ英政界は日本を支持している。英国立公文書館には、1930年代にも満州を含む極東でのロシアのインテリジェンスを巡って日英陸軍が頻繁に情報共有した記録が残っている。
 「英米の一体化」が出来上がるのは、チャーチルが戦時内閣の首相に就任した1940年5月、ナチス・ドイツが欧州全土をほぼ制圧し、連日連夜続くロンドン空襲で風前の灯となり、米国に泣きつくしか手段がなくなってからだ。裏返せば、それまでは、英国は日本との関係改善も視野に入れていたと考えられる。
 英国側というより米国の理想主義に同調した日本側の意思で同盟廃棄に至ったことは明記したい。」(岡部伸(注41)「日本の命運を暗転させた日英同盟廃棄の教訓| 「新・日英同盟」の行方」より)
https://www.nippon.com/ja/in-depth/d00742/

(注41)のぶる(1959年~)。立教大社会学部社会学科卒、産経新聞社入社、同社ロンドン支局長。山本七平賞受賞。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E9%83%A8%E4%BC%B8

⇒私も同感だが、それが日本を先の大戦とその敗戦へと導いたとする岡部とは違って、私は、それが日本を先の大戦とその勝利へと導いた、と、考えているわけだ。(太田)

(続く)