太田述正コラム#14320(2024.7.7)
<大川周明『大東亜秩序建設/新亜細亜小論』を読む(その21)>(2024.10.2公開)

 「・・・昭和11<(1936)>年9月のこと、関東軍司令官は満州建国過程における協和会<(コラム#10909等)>の使命について、極めて重大なる布告を発し、同時に<板垣征四郎>関東軍参謀長はこの布告について公式にしたの如き説明を与えた–『協和会の祈念するところは、第一弾において王道満州国の完成であり、次に来るものは東亜各地の被圧迫・被征服民族を解放して、逐次王道楽土を建設することである』と。

⇒協和会は、「満洲事変以後、中華民国からの分離独立や王道政治に基づく新国家建設の理念を説いた于冲漢らの自治指導部が協和会の起源」であって、石原莞爾と板垣征四郎という日蓮主義者達、の「内面指導」を受けて、結党されたところの、満州国の税金で運営された「官民一体の国民教化組織」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E6%B4%B2%E5%9B%BD%E5%8D%94%E5%92%8C%E4%BC%9A
ですから、この会にとって、「被征服民族」とは、もともとは、満、蒙両民族
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%97%8F%E5%8D%94%E5%92%8C_(%E6%BA%80%E6%B4%B2%E5%9B%BD)
を指したのであろうところ、大川が紹介した、板垣征四郎関東軍参謀長布告についての(板垣自身が行った?)「公式にしたの如き説明」がアジア主義的なものになったのは当然でしょうね。
 ちなみに、この時、石原莞爾は、参謀本部作戦課長を経て指導課長になっていました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE (太田)

 支那事変および大東亜戦争後に声高く唱え初められた東亜新秩序<(注42)>または大東亜共栄圏の理念が、夙(はや)くも既にこの時に具体的に表明されていることは、吾らの銘記せねばならぬところである。・・・

 (注42)「1938年(昭和13年)11月3日及び同年12月22日に、時の内閣総理大臣近衛文麿(第1次近衛内閣)が発表した声明[・・第二次近衛声明、第三次近衛声明・・]に登場する構想である。
 反共主義によるもの(抗日容共な国民党政府の否定、大日本帝国・満洲国・中華民国3カ国の連帯による共同防共の達成)と、汎アジア主義によるもの(東洋文化の道徳仁義に基づく「東亜に於ける国際正義の確立」、東洋古来の精神文化と西洋近代の物質文化を融合した「新文化の創造」)の両方を含む。ただし、東洋文化については日本文化をますます醇化発展させ、<支那>文化その他に新生命を吹き込んで更生再建させる所に「新文化の創造」の要諦があるとされた。・・・
 国民政府との和解を妨げる第一次近衛声明での「対手とせず」を修正する意図があったと解されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E6%96%B0%E7%A7%A9%E5%BA%8F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%A3%B0%E6%98%8E ([]内)

⇒コトバンクに掲げられているところの、特定の歴史学者が執筆したところの、「東亜新秩序」の説明は、どれも「日本が中国を排他的に独占支配することを合理化するためのイデオロギー」的なトーンである
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E6%96%B0%E7%A7%A9%E5%BA%8F-103035
のに対し、上掲のウィキペディアはより客観的かつ科学的なトーンで書かれており、珍しいことです。
 後者が大川の「東亜新秩序」観に近いと思いますし、私自身は大川/ウィキペディアに軍配をあげたいと思います。(太田)

 然るに最も遺憾に堪えぬことは支那が日本の真意とアジアの運命とを覚らず、満洲建国を以て日本の帝国主義的野心の遂行となし、いやが上にも抗日の感情を昂め来れることである。」(44~45)

⇒いや、まさに支那人が怒り心頭に発するようになるように、杉山元らは、仕組み、見事にそれに成功した、ということなのですが・・。(太田)

(続く)