太田述正コラム#14322(2024.7.8)
<大川周明『大東亜秩序建設/新亜細亜小論』を読む(その22)>(2024.10.3公開)

 「吾らは支那の抗日について、決して支那のみを責めようとは思わない。
 既に述べたる如く、日露戦争以後の日本の国歩は、世界史の根本動向と異なれる方向に進められた。
 ロシヤと戦い勝ちて、表面皮相ではありながら世界一等国の班に入るに及んで、これまで張りつめ来れる国民の心の弦ゆるみ、沈滞苟安(こうあん)の風潮、漸く一世に漲り初めた。
 かくて日露戦争における勝利によって、アジアの諸国に絶えて久しき復活の血潮を漲らしめたに拘らず、日本は却って彼らを失望せしむる如き方向に進んだ。
 日本はアジアの友人または指導者たる代りに、その圧迫者たる欧米に追従したのである。

⇒大川はそうおっしゃるが、追従どころか、対華21カ条要求
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E8%8F%AF21%E3%82%AB%E6%9D%A1%E8%A6%81%E6%B1%82
などという、「圧迫者」たる欧米と同様の行動を日本は取り続けたのですがね。(太田)

 日露戦争によって『頭脳に新世界』を開かれた安南の青年は、陸続国を脱して東京に留学し、独立運動者としての資格を鍛錬すべく刻苦勉励していたが、日仏協約<(注43)>の締結によって悉く追放の憂目を見た。

 (注43)「1907年6月10日にパリにおいて締結された<。>・・・フランスは日本との関係を相互的最恵国待遇に引き上げることを同意する代わりに、日本はフランスのインドシナ半島支配を容認して、ベトナム人留学生による日本を拠点とした独立運動(ドンズー運動)を取り締まることを約束した。
 また、両国は清の独立を保全するとともに清国内におけるお互いの勢力圏を認め合った。これによってフランスは広東・広西・雲南を、日本は満州と蒙古、それに秘密協定によって福建を自国の勢力圏として相手国側に承認させたのである。・・・
 この協定によって同年に日露協約を締結した日本は三国協商陣営の事実上の一員に加わることになる。
 1941年の日本軍による仏印進駐によって事実上無効となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E4%BB%8F%E5%8D%94%E7%B4%84

 日本に亡命し来れるインド革命の志士は、イギリスの強要によって放逐された。
 東京外国語学校のインド語教師なりしアタル<(注44)>君が、英国大使館の迫害に堪え兼ね、毒を仰いで自殺せることは、吾らの今なお忘れ得ぬ悲惨事である。」(45)

 (注44)ハリハルナート・トゥラル・アタル(~1921年)。「東京外国語学校<に、>・・・1916(大正5)年6月13日に月給130円、持ち時間20時間で雇用されたインド人教師<。>・・・月給は1920年には260円33銭に増額された。」
https://www.tufs.ac.jp/common/archives/TUFShistory-hindi-1.pdf
 「自死した東京外国語学校のインド人講師・・・アタルの追悼会が東京帝国大学で行われる。アタルはさる6月14日午後2時頃、自宅2階の8畳間で劇薬を飲んで服毒自殺をはかって苦悶しているところを女中が発見し直ちに手当を加えましたが、午後4時に死亡が確認されました。
 アタルは当時英国の領土だったインドのユナイテッド・プロビンス、現在のウッタル・プラデーシュ州ヴァーラーナシーの出身で、5年前の1916(大正5)年に来日しました。平素から英国のインド支配に不平を漏らしていましたが、遺書にも英国政府に対する抗議の文章が残されていました。この日の追悼会はヒンドゥー式で挙行され、中野正剛や大川周明らのアジア主義者が出席し、哀悼の辞を述べました。」
https://note.com/yoshizuka/n/nf437971a8a49

⇒英国大使等に遺書を残したアタルの追悼式が東大法の32番教室・・私もこの教室で講義を何度も受けた・・で開催された(上掲)、というのは、ちょっとした驚きです。いかに、当時、アジア主義(≒島津斉彬コンセンサス)が少なくとも日本の諸大学を席捲していたかが、改めて良く分かります。(太田)

(続く)