太田述正コラム#14324(2024.7.9)
<大川周明『大東亜秩序建設/新亜細亜小論』を読む(その23)>(2024.10.4公開)
「支那に対しては、日支両国の堅き結合による以外、またアジア復興の途なき運命を、直覚的に把握し、深き同情と愛着とを以て支那問題に終始し来れる人々が、支那浪人<(注45)>の名の下に活動の舞台から斥けられ、専ら利権獲得を目的とする商人の冷かなる手のみが徒らに支那に伸びていった。
(注45)「 明治・大正から第二次世界大戦頃まで、中国大陸に渡り日本の大陸政策の秘密工作などに従事しながら大陸を放浪し、現地の政・財界および軍部とも結んだ日本の民間壮士たちの称。大陸浪人。」
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さればこそ孫文一派に対する永年の援助と友誼とに拘らず国民党の権力を最後に確立せしめたる北伐革命に際しては、日本は国民党内部に何らの緊密なる連繫を有せず、その革命指導権をロシアに与え去って<(注46)>顧みなかった。
(注46)「コミンテルンは,1920年,帝国主義との闘争において民族・植民地解放運動と同盟する戦略を決定<したが、>・・・これは,20年<に、ソ連の> V.レーニンがコミンテルン第2回大会で提起した「民族および植民地問題に関するテーゼ」の植民地解放闘争におけるブルジョアジーの役割重視によるものであった。・・・<そして、>・・・1921年7月<に>創立<した>・・・中国共産党<との>・・・合作<を、支那>における唯一のブルジョア革命政党,中国国民党に働きかけた。・・・国民党も孫文=ヨッフェ共同宣言 (1923) を経て両党の合作を承認し<たが>,共産党員がその党籍を保持したまま,個人として国民党に参加する形<要求し、その要求を通し、>第1次国共合作が成立した。・・・1924年1月,国民党第1回全国大会は〈連ソ・容共・労農援助〉の新政策を決定し合作は正式に発足した。孫文の死後もソ連軍政顧問団の支援と労農の組織化にあたった中国共産党の努力で広東国民政府の基盤は急速に強化されたが,国民党内には左翼勢力の伸張を恐れ,蔣介石を中心とする反共・限共の動きが公然化した。北伐戦争が開始され国民政府が武漢に進出した27年4月,蔣介石らは上海,広東で反共クーデタを起こして国民政府を分裂させ,武漢国民政府によった国民党左派も7月,反共に転じて国共合作は崩壊した。中国共産党は武装闘争を開始し,10年間にわたる国共内戦が続く。」
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孫文=ヨッフェ共同宣言(Joint Communiqué by Sun Wen and Adolf A. Joffe)。「1923年1月 26日に上海で発表された孫文とソ連の中国派遣特命全権大使 A.ヨッフェの共同宣言。共産組織やソビエト制度は中国に適用できないこと,中国の統一と独立に対しソ連は同情と援助を送ること,帝政時代の中露条約の破棄を基礎として鉄道の管理などに関して中ソ交渉を開始する用意があること,ソ連は外モンゴルに対し帝国主義的意図はなく,ソ連軍が即刻撤退するには及ばないことなどを宣言した。」
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ヨッフェ(Adol’f Abramovich Ioffe (Joffe)。1883~1927年)。 「裕福なユダヤ人の家庭に生まれ,・・・ベルリン大卒,チューリヒ大卒。・・・1902年ロシア社会民主労働党に入党,メンシェビキとして活動。 12年逮捕されシベリア流刑となった。 17年の二月革命後ボルシェビキに入党し,十月革命後外交官として活動。 18年ブレスト=リトフスク講和会議の首席代表となり,22~23年北京で中ソ国交回復交渉にあたり,22年・・・東京で後藤新平と<の間で>・・・日本と極東共和国 (1920~22年にシベリアに成立した中間的な緩衝国家) との長春会議に参加,23年上海で孫文と共同宣言を発表した (→孫文=ヨッフェ共同宣言 ) 。 L.トロツキー除名・・・追放に抗議して・・・ピストル自殺をとげた。」
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この事は日本の不幸であると同時に、一層重大なる意味において支那の不幸であった。
かくて支那の排日は侮日となり、侮日は抗日となりて遂に支那事変の勃発を見るに至った。」(45~47)
⇒ロシアのマルクスレーニン主義カルトが弥生人たるロシア国民とロシア植民地下の普通人をまず信徒化した上で、孫文を筆頭とする普通人たる支那国民の信徒化に乗り出したけれど、それが、蒋介石を筆頭とする普通人たる支那国民の反発を引き起こした、という図式ですね。
杉山元らは、広義の欧米内の、第一次世界大戦後における、米英仏対独伊の対立、そして、ロシア(ソ連)とそれ以外の対立、を、日蓮主義の観点からの最終戦争に日本が勝利を収めるチャンスと見て、蒋介石系勢力に冷戦を仕掛けるとともに、支那における日本文明継受勢力の発見/養成に努めつつ、開戦の時期を探る運びとなった、というのが私の見方です。(太田)
(続く)