太田述正コラム#14328(2024.7.11)
<大川周明『大東亜秩序建設/新亜細亜小論』を読む(その25)>(2024.10.6公開)
「・・・勢いの窮まるところ、遂に大東亜戦争の勃発となった。・・・
日支両国は何時までも戦い続けねばならぬのか。
これ実に国民総体の深き嘆きである。
普通の常識を以てしても、日支両国は相和して手を握れば測り知れぬ利益あり、戦って相争えば百害がある。・・・
⇒繰り返しますが、日支両国が熱戦であれ冷戦であれ、とにかく、「相和して手を握」らないことこそが、日支両国ともども、広義の欧米勢力の全部または一部によって潰されることを回避するための生活の知恵であることを、大川は全く分かっていません。(太田)
いま日支両国が復興アジアの大義によって相結び、その実現のために手を携えて起つとすれば、インドまた直ちに吾に呼応し、ここに独自の生活と理想とを有する大東亜圏の建設が、順風に帆を挙げて進行するであろう。
⇒インド通でもあった筈の大川としては、随分甘っちょろいことを言ったものです。
イスラム世界通でもあった大川が、イスラム世界「また直ちに吾に呼応し」とは言えなかったのと、ほぼ同じ意味で、インドについても、そんなことは言えなかった筈なのですが・・。(太田)
然るに現実は甚だしく吾らの理想と相反する。
もとより南京政府は既に樹立せられ、汪精衛氏以下の諸君は、興亜の戦において吾らと異体同心であり、進んで大東亜戦争に参加するに至ったのではあるが、支那国民の多数派その心の底においてなお蒋政権を指導者と仰いで、反日・抗日の感情を昂めつつある。」(48、52)
⇒大川を含め、汪兆銘政権の人気が当時の支那において極めて低かったことを当然視している人ばかりですが、当時、世論調査が行われたわけでもなし、一体、いかなる根拠からそう考えていたのか、必ずしも明らかではありません。
「1940年3月に創設された汪兆銘政府の軍隊・和平建国軍は、・・・日本との軍事協定と借款協定によって整備・拡充され、旧維新政府軍や雑軍(東北軍、元西北軍)に加えて蔣介石軍の捕虜や投降者などが加わって急増した。1945年8月の解散時には華北政務委員会の兵士を加えると総数約100万人、正規軍60万人以上に達していた。重慶軍の離反者の急増は、かれらが自身の勢力を維持するという要求と和平建国軍の「戦わざる軍隊」という特質とが合致していたため促進された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%AA%E5%85%86%E9%8A%98%E6%94%BF%E6%A8%A9
からも、同政権が結構「人気」があったことが伺えますし、汪兆銘政権が「(ある程度の)支配地域の治安回復・経済生活の改善などの成果を挙げた」
https://www.hmv.co.jp/artist_%E5%9C%9F%E5%B1%8B%E5%85%89%E8%8A%B3_200000000566420/item_%E3%80%8C%E6%B1%AA%E5%85%86%E9%8A%98%E6%94%BF%E6%A8%A9%E3%80%8D%E8%AB%96-%E6%AF%94%E8%BC%83%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%9C%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E8%80%83%E5%AF%9F_4181891
ことから、管轄下の「国民」の間の「人気」だって、なかったとは言い切れないのではないでしょうか。(太田)
(続く)