太田述正コラム#14330(2024.7.12)
<大川周明『大東亜秩序建設/新亜細亜小論』を読む(その26)>(2024.10.7公開)
3 『新亜細亜小論』を読む
「アジア湿潤地帯の・・・文化の・・・濃厚なる地方色と、アジア諸国の現前の分裂状態とに心奪われ、その表面の千差万別にのみ嘱目して、日本の学者のうちには東洋または東洋文化の存在を否定する者がある。
即ち西洋においては一つの歴史が展開し一つの文化が発展し、従って一つの世界が形成されているが、東洋においては決してこの事がない。
東洋には西洋史と同一意味の東洋史なく、あるものは東洋諸民族の生活したる支那史・日本史等だけであり、従って東洋的と呼ばるべき世界または文化はないと主張する。
かくてアジアは一つと言う提唱は公式主義などと呼ばれて、常にその『単純素朴』を哂われてきた。・・・
しかしながらアジアの一如を唱える何人も、未だかつて表面に現れたるアジアの複雑多様を否定した者がない。
現実のアジアの多様性は、彼らによって指示されるまでもなく、耳にて聞き目にて見得る事実であり、この事を殊更に強調するこそ寧ろ不可解の心理である。・・・
東洋においては、支那およびインドの思想・文化の交流によって、夙くも唐代に東洋文化の成立を見、次で宋代に入りて程朱の理学〔朱子学〕が生れ、恰もローマ法王が中世ヨーロッパの精神界に君臨せる如く、宋学がインドを除く東亜全域の精神界を支配した。
⇒イスラム世界を最初から除き、更には、インドまで除いてしまった時点で、大川が何を言いたのか分からなくなってしまいます。(太田)
蓋し宋学は、華厳・禅・孔子・老子の諸教説が、宋儒の精神を坩堝として混融せられたる偉大なる思想体系であり、そのゆえにこそ徧(あま)ねく東亜の指導原理たり得たのである。
⇒この「華厳」に引っかかって、少し調べてみましたが、「法華」は簡単なのに、こちらは何が何だか分からない
https://1000ya.isis.ne.jp/1700.html
ので、無視して先に進むことにしました。(太田)
吾が国においても鎌倉幕府以来、程朱の教学が精神界を支配した。
日本が宋学の支配を脱却し初めたのは伊藤仁斎・荻生徂徠らが原始儒教への復帰を高調してからのことである。」(89~91)
⇒鎌倉時代から、朱子学が日本の精神界を支配した、と、大川は言うけれど、「日本の思想史の中に活きた形で朱子学を取り込んだ最初期の人物としては、<鎌倉時代ではなく、室町時代になってからの、>清原宣賢<(注48)>・岐陽方秀<(注49)>とその門人<が>挙げ<られ>る<ところ>、室町時代には朱子学は地方にも広まっており、桂庵玄樹<(注50)>は明への留学後、応仁の乱を避けて薩摩まで行き、蔡沈の『書集伝』を用いて講義をし、ここから薩南学派が始ま<り、>また、土佐では南村梅軒<(注51)>が出て海南学派が始まった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%AD%90%E5%AD%A6
、という程度のことでは、室町時代においてさえ、「程朱の教学が精神界を支配した」とは言えませんし、その上、南村はその存在が疑問視されるに至っているところ、残りの3人は、いずれも禅僧としてその生涯を終えており、彼らにおいてさえ、「程朱の教学が<自身の>精神・・・を支配した」と言えそうもないのですから、なおさらでしょう。
(注48)きよはらのぶかた(1475~1550年)。「吉田神社祠官神道家・吉田兼倶の三男として誕生。明経博士だった清原宗賢の養子として入る。・・・享禄2年(1529年)に宮仕えから身を引き、大徳寺で出家・剃髪して環翠軒宗武と号し、学者としての活動に専念した。晩年は越前朝倉氏に招かれた。・・・国学者・儒学者で歴史上屈指の碩学とされ多くの著作がある<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%8E%9F%E5%AE%A3%E8%B3%A2
(注49)きよう/ぎようほうしゅう(1361/62~1424年)。「1411年(応永18年)に東福寺の第80世住職となる。また、1418年(応永25年)には天竜寺の第64世住職にもなった・・・後<、>南禅寺の第97世や常陸の普門寺の住職にもな<った>
・・・臨済宗の僧<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%90%E9%99%BD%E6%96%B9%E7%A7%80
(注50)けいあんげんじゅ(1427~1508年)。「郷里長門国永福寺住持となったが、1467年には遣明船の三号船士官となって明に渡海して蘇州などを遊学し朱子学を究める。1473年、日本に帰国したが、応仁の乱による戦禍から逃れるため、石見国に避難した。1478年、島津忠昌に招かれて大隅国正興寺、日向国竜源寺の住持となる。さらに島津忠廉に招かれて、薩摩国の桂樹院で朱子学を講じた。・・・その後、建仁寺や南禅寺の住持となり、1502年に薩摩に東帰庵を営んで同地に住んだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E5%BA%B5%E7%8E%84%E6%A8%B9
(注51)みなみむらばいけん(?~1579年?)。「近年の歴史学の進展に伴い、江戸時代初期の儒学者・大高坂芝山が捏造した架空の人物であるとの説が有力となってその存在が疑問視され、2003年度版からは山川出版社の高等学校検定教科書においてその記述が削除されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%9D%91%E6%A2%85%E8%BB%92
そして、江戸時代に入ると、「日本<は>宋学の支配を脱却し初めた」、つまりは、「程朱の教学が精神界を支配した」とは言えなくなったというのですから、結局、日本で、「程朱の教学が精神界を支配した」ような時期は一度もなかった、と、いうことになりそうです。
とまれ、大川は人間主義音痴のようなので、もちろん日蓮主義者とは呼べず、しかも、日本以外のアジアのどの地域のことも半可通でしかなく、それどころか、自国の日本のことすらよく分かっていなかったようなので、彼をアジア主義者と呼ぶことすら憚られますね。(太田)
(続く)