太田述正コラム#14332(2024.7.13)
<大川周明『大東亜秩序建設/新亜細亜小論』を読む(その27)>(2024.10.8公開)

 「・・・欧米はアジアを蔑視する。
 それゆえに彼らの著書を読む者は、アジアに如何なる善きものもないと思うに至った。
 欧米はアジアの覚醒を欲しない。
 それゆえに健全なる古代への思慕を妨げ、国民的英雄への追憶を妨げる。
 欧米はアジアの統一結合を恐れる。
 それゆえにアジア共同の文化と理想とを想起することを妨げる。
 かくて彼らの著書を読むアジアは、互いに敵視し、また互いに他を侮る。 
 この分裂し敵視するアジアの現実に圧倒されて、東洋否定論者はアジアの一如を否認する。
 しかもかくの如き分裂状態そのものが、実に欧米によって創り出されものでないか。

⇒欧米が介在ようとしまいと、「アジアの定義が多岐に分かれているのは、アジアという言葉が同一の文化・文明あるいは人種・民族を基盤として定義された概念ではなく、そもそもの由来がヨーロッパ以外の東方地域全部という意味であったため、結果的に異なる文明が分立する地域を一つの言葉で定義してしまった事に由来すると考えられる。サミュエル・P・ハンティントンの著書『文明の衝突』によれば、アジアには日本文明・中華文明・ヒンドゥー文明・イスラム文明が存在するとされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2
という次第であり、「アジア共同の文化と理想」など、「世界共同の文化と理想」がおよそ存在し得ないのと同様、およそ存在し得ないのであって、大川が言っていることはナンセンスです。(太田)

 この屈辱と分裂と悲惨と無感覚のアジアを、長夜の眠りから喚び覚ましたのが、実に日露戦争における日本の勝利である。・・・
 誰かアジアに同一性なしと言うか。
 全アジアはいま一面にはヨーロッパの支配を覆し、他面には自己の腐敗せる社会的伝統を倒して、独立国家建設のために高貴なる血を濺(そそ)ぎつつある。

⇒「腐敗せる社会的伝統」については、伝統でも何でもないのであって、世界標準の人間像は私の言うところの普通人なのですから、一族郎党外から「収賄」や「収奪」を行うところの「腐敗」もまた世界標準なのです。
 一族郎党命制ならぬ(弥生人たるゲルマン人が、普通人たる原住民・・市民と農奴・・、を統治する)階級制、という特色こそあれ、プロト欧州文明において西欧の権威の頂点たる法王を擁するカトリック教会は、中世の「9世紀末から11世紀半ばまで、・・・聖職売買や聖職者の妻帯などの・・・腐敗が深刻になっていった。」
https://www.y-history.net/appendix/wh0601-077.html
ところ、その後も腐敗がひどかったことは、近世の「1517年、ルターが「九五か条の意見書」を発表し、信仰のよりどころを聖書にのみ求めてローマ教皇の免罪符販売と教会の腐敗とを攻撃したこと」
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%97%E6%95%99%E6%94%B9%E9%9D%A9-76847
からも、明らかでしょう。
 ということは、プロト欧州文明においては、教会以外でも腐敗が蔓延していたことが想像できますし、それは、中世や近世以外、更には欧州文明、においても程度の差こそあれ同じだったはずであり、この点では、西欧とアジアの違いは質的にはなきに等しかった、と、言うべきでしょう。(太田)

 何はさて置きアジアは先ず共同の政治的運命の下に立つ。
 政治的運命の共同が、アジアの諸民族を結ぶ強き絆たるべきことは言うまでもない。

⇒「強」かったかどうかはともかくとして、それが「絆」たりえたことは事実でしょうね。(太田)

 その上にアジアは、表面の千差万別に拘らず、その世界観において、即ち如何に世界と人生とを観るか、如何に之を理解し解釈するか、之に応じて如何に生活を形成するかについて、明かに根本的一致を有する。」(92~93)

⇒これについて、これからなされるであろう大川の説明を読まされるのでしょうが、取敢えずは、ナンセンスを繰り返すのはいい加減にしてくれ、という率直な思いです。(太田)

(続く)