太田述正コラム#14334(2024.7.14)
<大川周明『大東亜秩序建設/新亜細亜小論』を読む(その28)>(2024.10.9公開)
「・・・ヨーロッパ精神と東洋精神との最も顕著なる対照的特徴として常に指摘されるのは、前者が主我的であり、後者が没我的であることである。
⇒宮本百合子が、「箇人主義――利己主義、それは名の如く、何事に於ても、自己を根本に置て考え、没我的生活に対する主我的の甚だしいものである。主我! それは、真にたとうべくもあらぬ尊いものである。此の世に生れ出た以上は、自己を明らかにし、自己を確実に保つ事の目覚しさを希うて居る。何事に於ても、「我」が基になるほど確な事はない。神よりも自己を頼み、又とない避難所とし祈りの場所とする事は、願うべき事である。そう云えば、此の主我が主張する箇人主義、利己主義は真に尊いものであるべきである。完全なものであるべきである。・・・箇人主義と社会的生存。それは、甚だ矛盾した様な外見を持って居る。けれ共、正しい箇人主義は社会的生存に一致する事を私は確信して居る。」(『大いなるもの』より)
https://www.aozora.gr.jp/cards/000311/files/7927_34408.html
と書いているところ、これが執筆された時期は不詳ですが、ここから、大川もまた、主我的を個人主義的、没我的を社会的生存主義的、すなわち、社会主義的、という意味で用いている、と、推測できそうです。
しかし、大川のかかる主張の根拠は、一体、何なのでしょうか。
いや、そもそも、私見では、プロト欧州文明も欧州文明も個人主義文明ではない(コラム#省略)のですから、出発点から大川は間違っています。(太田)
即ち前者においては、個人の人格価値が優位を占め、後者においては超個人的共同体が優位を与えられることである。・・・
⇒大川は、欧米の有識者達の非科学的にして通俗的な偏見を無批判に自分の意見にしてしまっています。(太田)
東洋においては、個人は彼を団結する社会のうちに没入し、個人の利害は家族・血族・国家という超個人的秩序の中に織込まれている。
此処では人間の単位が個人に非ずして家族であり、国家は家族の拡大とせられ、家族の正しき秩序が真実なる国家制度の前提となっている。
かくてヨーロッパの社会が個人的契約によって成れるのに対し、東洋の社会は家族的団結によって成る。」(93~94)
⇒アジアにおいても、人間社会の単位は家族と言うよりは一族郎党なのであり、他方、明治維新までの日本文明下においては、貴族や武家の間では、家族ならぬ家であったこと、日本の戦前においては、日蓮主義戦争体制の下で、便宜的に、華族、士族、だけでなく、平民にも、かつての貴族/武家における家制度を押し付けていた・・来るべき八幡市講義レジメの第二部参照・・こと、を、踏まえれば、ここでも、孔子の考えならぬ儒教に無批判的に依拠してしまっているところの、大川の言は誤りです。(太田)
(続く)