太田述正コラム#14340(2024.7.17)
<大川周明『大東亜秩序建設/新亜細亜小論』を読む(その31)>(2024.10.12公開)

「・・・東洋の善きもの、貴きものが、よしその故国においては単に過去の偉大なる影となりはてているとしても、日本においては現に潑剌たる生命を以て躍動しているからである。・・・

⇒大川は全く気付いていなかったけれど、大川を走り使いに使った杉山元らは、東洋ならぬ「世界の善きもの、貴きものが、よしその故国においては単に過去の偉大なる影となりはてているとしても、日本においては現に潑剌たる生命を以て躍動している」ことに気付いていた筈です。
 但し、それを、私のように、人間主義、と、呼んではいなかった筈であるところ、彼らがどう呼んでいたか、興味あるところです。(太田)

 吾らは千年に亙る生活経験によって、現に支那およびインドを吾らの生命に摂取せるものなるがゆえに、日本精神は東洋精神として初めて正しく理解することが出来る。

⇒そうではなく、日本人達が、自分達が当たり前のものとして備わっているところの、名前はないけれど、私が言うところの人間主義に近似した概念を、支那に関しては孔子が唱えた仁において、また、インドに関しては法華経が唱えた慈悲において、見出した、ということ、以上でも以下でもないのであって、後に知るところとなったキリスト教に関しても、イエスが実践した利他(注56)、を、人間主義に似通ったところがあるものとして見出したと思われます。

 (注56)「[使徒パウロと協力者ソステネコリントの教会の共同体へと宛てられた]コリント人への手紙第1 10章24<節に、>だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい<、とある>。・・・<また、使徒>パウロ<は、>・・・私は自分を捨ててまで、私を愛して下さったイエス様の模範に倣って、自分を捨てて人々の益の為に人生を使っている。あなたがたも、その面で、私に倣って欲しい<、>と言ってい<る。>・・・(ピリピ<人への手紙(The Letter to the Philippians)>2:16、17)」
http://igmtokyo.com/sermon/1999/06/sermon990613.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%88%E3%81%AE%E4%BF%A1%E5%BE%92%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%89%8B%E7%B4%99%E4%B8%80 ([]内)


 なお、「イギリス道徳感覚学派、功利主義、その他の多くの立場は部分的に利他主義を含む」
https://kotobank.jp/word/%E5%88%A9%E4%BB%96%E4%B8%BB%E7%BE%A9-148865
は、私に言わせれば誤解を呼ぶものであり、「デイヴィッド・ヒュームやアダム・スミスといったスコットランドの道徳感覚学派<(moral sense school)>の立場は人間主義的であった」がより適切でしょう。
 イギリス、ひいては英国の人間主義的文化はケルト人由来である、というのが私の仮説であるわけです。(太田)

 それゆえに東洋または東洋文化の存在を否定する者は、アジアの最も潑剌たるたる本質を、自己の内部に発見しかつ把握し得ざる自己否定論者である。」(97)

⇒従って、このくだりも、大川の独断と偏見に由来するナンセンスです。(太田)

(続く)