太田述正コラム#2715(2008.8.7)
<ヒットラーの二つの謎(その1)>(2009.2.8公開)
1 始めに
ヒットラーの二つの謎と言えば、どうしてヒットラーがドイツの権力を掌握できたのかと、ホロコーストに係る意志決定はどのようになされたのかですが、英国の著名な歴史家である、英シェフィールド大学教授のカーショウ(Ian Kershaw。1943年~)(コラム#1894)が上梓した最近の本の書評や、カーショウ自身の論考をによって、この二つの謎に迫ってみましょう。
(以下、特に断っていない限り
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/07/31/AR2008073102684_pf.html
(8月3日アクセス)、
http://www.philly.com/inquirer/entertainment/books/25896489.html、
http://www.nytimes.com/2008/02/03/opinion/03kershaw.html?_r=1&pagewanted=print&oref=slogin、
http://hnn.us/roundup/entries/39200.html
(いずれも8月7日アクセス)による。)
ちなみに、カーショウはもともとは中世イギリスの修道院の社会経済史の専門家だったのですが1970年代末に研究対象をナチスドイツ史に変更して現在に至っています。
2 どうしてヒットラーがドイツの権力を掌握できたのか
「ヒットラーは、高度に自由主義的な憲法を持った民主主義の下で権力を掌握し、民主主義的自由をも活用してこの民主主義を掘り崩し、破壊した。
ドイツの民主主義は1919年に導入されたものであり、第一次世界大戦での敗戦と革命の産物であってドイツのエリートの大部分、とりわけ軍隊、大土地所有者、大企業は決して民主主義を受容しなかった(注1)。
(注1)1917年の初めての本格的な政党内閣の成立と1925年の普通選挙制の成立に象徴される日本の民主主義(大正デモクラシー)は、エリートは東大の吉野作造や美濃部達吉、から大衆は米騒動に参加した人々に至る広範な人々によって内発的にもたらされたものであり、ドイツとは事情が全く異なる。(例えば、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E3%83%87%E3%83%A2%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%BC
(8月7日アクセス)参照。)(太田)
ヒットラー率いるナチスの選挙での支持率は1928年には2.6%、1930年には18.3%、1932年7月には37.4%とうなぎ登りだったが、これは、数百万のドイツ大衆の怒り、フラストレーション、恨み、と同時に希望の大きさと、ヒットラーがこれらの感情を汲み上げることができたことを示している。
民主主義は失敗し、ドイツは分裂し、貧しくなり辱めを受けていたとドイツ大衆は感じていたのでスケープゴートが必要だったのだ。
彼らが憎しみをユダヤ人にぶつけたのは当然とも言えた。というのは、ユダヤ人が外からの脅威であるところの国際資本主義とボルシェヴィズムを代表しているかのように見えたからだ。国内的にはユダヤ人は、ヒットラーとその一派によってドイツの苦境について責任があるとされた政治的左派たる社会主義者と共産主義者の仲間と目された。
次第にヒットラーは、ドイツの選挙民の三分の一強によって国を復興し、誇りを取り戻し、民族的救済をもたらしてくれる唯一の希望とみなされるようになった。1930年までにはドイツをナチスの支持なくして統治することは事実上不可能になった。しかし、ナチスの得票率は民主主義を阻害することは可能であったものの、ヒットラーに権力を掌握させるには不十分だった。
1930年以降は、ドイツ国家は膠着状況に陥ってしまった。民主主義は形式的には生き残っていた。しかし、事実上死んでいたか死につつあった。反民主主義的なドイツのエリート達は解決策を仲介しようとしたが、ヒットラーが非妥協的であったために失敗した。結局、他に権威ある解決策を見出せなかったため、パウル・フォン・ヒンデンブルグ大統領は1933年1月30日、ヒットラーを政府の首班、首相に任命した。その結果として、ドイツ、欧州、そして世界に大災厄がもたらされることになる。
とはいえ、ヒットラーが首相になってからも、その一ヶ月後の国会議事堂の火事なくしては、民主主義の最後の痕跡の破壊が始まり、ヒットラーの全権掌握への道が開かれることはなかったろう(注2)。」(カーショウ。ニューヨークタイムス上掲)
(注2)民主主義は圧力に晒されてもしのびよる専制主義への障害たりうる。このことは最近、ロシアのプーチン(Vladimir Putin)が憲法の規定との抵触を回避するために、実権は維持しつつも大統領の座を譲らざるをえなかったことや、チャベス(Hugo Chavez)が終身大統領となる野望を(国民投票で敗れたため)当分の間諦めざるをえなくなったことからも分かるというものだ。
3 ホロコーストに係る意志決定はどのようになされたのか
この問題を考えるためには、ナチスの政治システムにおけるヒットラーの個人的役割についての考察と、ナチスドイツにおける世論をどう評価すべきかについての考察を行う必要がある、とカーショウは指摘します。
(続く)
ヒットラーの二つの謎(その1)
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