太田述正コラム#14346(2024.7.20)
<大川周明『大東亜秩序建設/新亜細亜小論』を読む(その34)>(2024.10.15公開)
「・・・『神は人を攻むる者を悪(にく)むがゆえに、一切の敵対を止めよ』と教えるアラーは、同時に『真実の宗教の確立せらるるまで汝らの敵と戦え』<(注62)>と教えている。・・・
(注62)「『クルアーン』第2章第193節にある「騒擾がすっかりなくなる時まで。宗教が全くアッラーの(宗教)ただ一条になる時まで、彼等(メッカの多神教徒)を相手に戦いぬけ」がある。 したがって二つの世界(家)の間は常に戦争状態にあり、ジハードがムスリムの永続的義務である以上、戦争状態がむしろ常態だとの指摘がある。
しかし同時に『クルアーン』は、戦争が正当なジハードたりうるのは異教徒が戦いを挑んできた場合に限られることも示しており、第2章第190節には、「あなたがたに戦いを挑む者があれば、アッラーの道のために戦え。だが侵略的であってはならない。本当にアッラーは、侵略者を愛さない」とある。加えて前述の第2章第193節後半部分に従えば、異教徒から挑まれた戦争であっても、相手がイスラーム共同体と和平を結び、「不義の戦争」を停止しようとしているならば、イスラーム共同体の側も害意を捨てて和平に努めなければならない。つまりイスラーム共同体は、イスラームとの戦いを望まない「戦争の家」勢力とならば、条約を結び外交関係を樹立することが可能であると理解される。これら外交関係を取り結んだ諸国は「和平の家」と呼ばれ、「戦争の家」とは区別される。 こうしたことから、「戦争の家」観と好戦的ジハード思想は古典期に成立した法学思想に過ぎず、クルアーンの教えではないとの指摘がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%89
西紀前<499>年より<449>年にわたる・・・ペルシア戦争こそ、実に最初の東西戦–アジアとヨーロッパとの最初の衝突と見るべきである。・・・
信仰を重んじ、伝統を重んじ、統一を重んじ、而して保守を重んずる精神、之と相対して理性を重んじ、独創を重んじ、自由を慕い而して進歩を尚ぶ精神が、既に歴然としてそれぞれペルシアおよびギリシアの当時の歴史に現れている。」(101、106)
⇒’These wars showed <Herodotus> that there was a corporate life, higher than that of the city, of which the story might be told; and they offered to him as a subject the drama of the collision between East and West.’
https://en.wikipedia.org/wiki/Herodotus
という、ヘロドトスのペルシャ戦争を描いた『歴史』の記述を鵜呑みにしている大川ですが、もちろん、ギリシャ諸都市とペルシャ帝国の位置関係は西と東ではあるけれど、ペルシャがアジアに属するとは到底言えないでしょう。
「アケメネス朝ペルシア<は、ギリシャ人と同じ>・・・インド・ヨーロッパ語族の民族であるペルシア人が建設し<た>・・・帝国」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B1%E3%83%A1%E3%83%8D%E3%82%B9%E6%9C%9D
ですしね。
それに、ペルシャ戦争は、「一般的にオリエント的専制に対するポリス民主政社会の勝利とされる」
https://www.y-history.net/appendix/wh0102-062_1.html
ことに引きずられたような大川の叙述ですが、そもそも、政治体制がペルシアが専制的でギリシャが民主的だった、とも言えません。
ギリシャ側も、例えばスパルタは最後まで民主制にはなりませんでしたし、アテナイだって、「ペルシャ・・・戦争において市民による重装歩兵が都市の防衛の主役となったほか、海戦における軍艦の漕ぎ手として無産市民も活躍したことで彼らも政治的地位を向上させ、軍事民主制(民主主義)による政治体制が確立されていった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%86%E3%83%8A%E3%82%A4
のであって、ペルシャ戦争の当時は民主制とは言い切れなかったのですからね。
なお、この帝国を征服したマケドニアの「アレクサンドロスはペルシア王国を征服した後、東方文化を積極的に導入し、マケドニアの古参将兵の反発を招いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AD%E3%82%B93%E4%B8%96
という挿話が示唆しているように、アレクサンドロスは旧ペルシャ帝国領を専制君主として統治した筈です。また、参考までながら、アレクサンドロスの帝国の後継諸帝国の一つのプトレマイオス朝は、被治者のエジプト人がインド・ヨーロッパ語族ではありませんでしたが、「王が神として統治するエジプトの伝統」を利用した統治が行われた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%82%B9%E6%9C%9D
ところです。(太田)
(続く)