太田述正コラム#14348(2024.7.21)
<大川周明『大東亜秩序建設/新亜細亜小論』を読む(その35)>(2024.10.16公開)
「・・・アレキサンドルの東征に次ぐ東西の衝突は、カルタゴとローマとの戦である。・・・
⇒カルタゴはフェニキア人(注63)による国家ですが、その政治制度については、「国家の代表は一般的にスーフェース(sufet、通例複数形でsufets、司法権と行政権を持った長官)と呼ばれ、ローマのコンスル同様に1年任期であった。・・・
(注63)「フェニキア人は系統的には様々な民族と混交していたが、アフロ・アジア語族セム語派に属するフェニキア語を話し、現存する言語ではヘブライ語と同じカナン諸語に属する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%82%AD%E3%82%A2
スーフェースには軍事に関する権限はなかったが、司法と行政の権限を付与された1人か2人のスーフェースが富豪や影響力をもった一族から選出された。
軍事上の特別職として、将軍がある。ローマのコンスルやスパルタの王とは異なり、カルタゴでは軍事は別とされており、ハンニバルもこれに選ばれた。将軍職は特定の家系の出身が多く、その権限を制限するために百人会が設立された。
貴族たちから選出された代議員によって、ローマの元老院に相当する機関である最高会議(元老院)を構成していた。最高会議は広範囲に渡る権限を有していたが、スーフェースの選任が最高会議によるのか、市民総会(民会)によるかは論が分かれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%B4
ということから、同時期の共和制ローマに比してさして「遜色」があったとは言えず、やはり、カルタゴを大川的意味での「東」に分類するのは無理があります。
なお、アレクサンドロス大王の東征は、既に述べたように、地理的に「東」に位置したところの、インド・ヨーロッパ語族を支配層とするペルシアを滅ぼして併合したものであり、大川的意味での東西の衝突ではありません。(太田)
さて叙上の東西対抗は、たとえ異種族であるとはいえ、実は白人と相近き、または白人と同根なる、セム民族およびイラン民族と白人との間に行われたるものである。
然るにその後第5世紀に至り、白人とは全く種族を異にする一民族が、疾風の如く起ってヨーロッパを襲撃した。
その民族とは他なし匈奴である。・・・
匈奴の西征に次ぐものは、第7・第8世紀におけるアラビア人のヨーロッパ侵略である。・・・
アラビア人に次でヨーロッパと戦えるものは、純乎として純なるアジア民族–吾らと血縁最も相近き蒙古人である。・・・
蒙古人に次では、オスマン・トルコ人の西漸がある。
彼らもまた、忽然として微弱より強大となれるアジア民族の一つである。・・・
かくの如くして第13世紀より第16世紀に至る数百年は、実にヨーロッパがアジアの前に慴伏(しゅうふく)せる・・・時代であった。
ヨーロッパ中世史の真相は、アジアとの関係を究めずして、決して明かにすべくもない。
蓋し中世のヨーロッパ諸国、一として多かれ少なかれアジアの影響を蒙らざりしはない。
唯だ例外を求むれば一のイギリスがある。
イギリスはその地理的関係から、殆どアジアと接触することなかった。」(110、113、116、119、124)
⇒「アジア」を「非キリスト教勢力」と言い換えれば大川の言う通りですね。(太田)
(続く)