太田述正コラム#14350(2024.7.22)
<大川周明『大東亜秩序建設/新亜細亜小論』を読む(その36)>(2024.10.17公開)
「・・・ギリシア・ローマの古(いにしえ)より、中世を経て現代に至るまで、ヨーロッパ精神の最も著しき特徴の一は、現実の社会生活–一層適切に言えば現実の国家に、人間の理想を実現すべき最上の組織を与え、いわば自働的に人類の進歩または完成を将来せんとする努力である。
⇒ギリシャ/ローマと欧米を一括りのものと見てはいけない、欧米はアングロサクソン文明とプロト欧州文明/欧州文明と米国文明からなる、という2点をしつこいようですが、繰り返しておきましょう。(太田)
さればヨーロッパの偉大なる思想家にして、今だかつて思を国家の制度組織のために凝らさざりしは無い。
プラトン、アリストテレスは言うにも及ばず、神に酔える哲人スピノザ<(注64)>さえ、またその例に洩れなかった。
(注64)バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza。1632~1677年)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%8E%E3%82%B6
「スピノザはまず、人間には元々ありとあらゆることをする権利(=自然権)があったと考えます。
しかし、全ての人間が自分の権利を行使し、好き勝手に行動してしまうと、結果として他者の権利を侵害してしまうことになります。
そうすると、本来権利を「使う側」の人が、誰かの権利を「使われる側」になってしまい、自然権が無意味なものになってしまいます。
そこで人々の権利を守るために、国家を作る必要性が出てきます。
スピノザにとっての理想の国家は、本来個人に与えられている自然権を実現するためのものでした。
スピノザが亡くなってしまったため、著書『国家』は未完に終わってしまいましたが、その他の文献などから、スピノザは国民が自ら国を統治する「民主国家」こそが、理想の国家の姿であると考えていたと言われています。」
https://tetsugaku-chan.com/entry/Spinoza
⇒「注64」に出て来る自然法も、淵源は(アリストテレス等ではなく)トマス・アクィナスまでしか遡れない、というのが通説です。
https://en.wikipedia.org/wiki/Natural_law (太田)
独り哲学と言わず、アウグスティヌス<(注65)>、トマス・アクィナス<(注66)>の如き宗教家、ダンテ<(注67)>の如き詩人まで、同じく心を政治的思索に籠めている。
(注64)アウレリウス・アウグスティヌス(Aurelius Augustinus。354~430年)。「アウグスティヌスの考えでは異教国家に真の正義はなく、キリスト教に基づく政治社会だけが正義を十分に実現できる国家であり、非キリスト教的な政治社会には「国家」 (Respublica) の名称を与えてはいない。アウグスティヌスは、国家を卑しい存在とし、堕落した人間の支配欲に基づくもので、その存在理由はあくまで神の摂理への奉仕で、それはカトリック教会への従属によって得られる。一方で『告白』に見られるような個人主義的に傾いた信仰と『神の国』で論じられた教会でさえも世俗的であるという思想は、中世を通じて教会批判の有力な根拠となり、宗教改革にも影響を与えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8C%E3%82%B9
(注65)トマス・アクィナス(Thomas Aquinas。1225?~1274年)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%82%B9
「トマスによれば、大衆の善を追求するのに最も適した最善の国制つまり統治形態ないし政体は、「すべての者に優る一人が卓越さに基づいて君臨し、そしてその下に、卓越さの故に支配する何らかの者たちがいるような種類のものである。」「それは、一人が君臨する限りにおいて王制、多くの者が卓越さに基づいて統治する限りにおいて貴族制、そして首長たちが人民の中から選ばれることができ、また彼らによって選ばれる限りにおいて民主制、つまり人民の権力であるという風に、それらのものが巧く組み合わされているものである。」そしてこの国制における主権は、「すべての者が首長として選ばれることができ、またすべての者によって選ばれるところから、すべての者に属するものである。」(『神学大全』第二部の第一第105問の第1項より)
https://www.bing.com/ck/a?!&&p=f380416cf0586439JmltdHM9MTcyMTQzMzYwMCZpZ3VpZD0xOWJmMDZkZi02YjFmLTZlNmQtMDk0NS0xMjRmNmE2NTZmMjEmaW5zaWQ9NTM4MA&ptn=3&ver=2&hsh=3&fclid=19bf06df-6b1f-6e6d-0945-124f6a656f21&psq=%e3%83%88%e3%83%9e%e3%82%b9%e3%83%bb%e3%82%a2%e3%82%af%e3%82%a3%e3%83%8a%e3%82%b9+%e5%9b%bd%e5%ae%b6%e8%ab%96&u=a1aHR0cHM6Ly9oYWt1b2gucmVwby5uaWkuYWMuanAvcmVjb3JkLzE2NTUvZmlsZXMvS0owMDAwMjQyODExNi5wZGY&ntb=F
(注66)ダンテ・アリギエーリ(Dante Alighieri。1265~1321年)。「イタリア都市国家フィレンツェ出身の詩人、哲学者、政治家。政界を追放され放浪生活を送り文筆活動を続けた。・・・『帝政論』De Monarchia 1310年 – 1313年? 全3巻<は、>ダンテ自身の政治理念をあらわしたもので、皇帝の正義や宗教的権威の分離などについて説く。・・・
青年詩人ダンテがフィレンツェ共和国の市政に関与していったころ、北イタリアの各自治都市はローマ教皇庁と神聖ローマ皇帝の両勢力のはざまにあって、グェルフ(教皇派)とギベリン(皇帝派)に分かれ、相克を繰り返していた。・・・
その<後>、フィレンツェ市の行政は、教皇派のなかでも、共和国の自立政策を掲げる白(はく)党と、商業上の利益から教皇に強く結び付く黒(こく)党とに分裂し、これがさらに市の名門チェルキ家とドナーティ家の確執と絡み合い、複雑な争いを繰り返していた。・・・<この>黒白両党の争いが激化して、教皇ボニファティウス8世が調停使節を派遣し、フィレンツェの内政に干渉しようとしたため、政権を握っていた白党はこれを阻む目的で01年10月、ダンテを含む3人を使者としてローマへ送った。だが、その間に教皇の使節バロアはフィレンツェに入り、政変が起こって黒党の天下となったため、02年1月、ダンテは故国に帰れないままに公金横領の罪に問われ、市国外追放と罰金刑を宣告され、さらに3月には罰金を支払いに出頭しなかった理由で永久追放の宣告を受け、捕らえられれば火刑に処せられることが決まった。・・・
<ダンテは、1310>年には、神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世がイタリアに攻め下ってきたのを機に、政情の変革を期待して『帝政論』をラテン語で書いたが、13年に皇帝が急死し、これによって故国フィレンツェに帰る望みはいっさい絶たれた。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%AE%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AA
(続く)