太田述正コラム#14354(2024.7.24)
<大川周明『大東亜秩序建設/新亜細亜小論』を読む(その38)>(2024.10.19公開)

5 新亜細亜小論

 今度は、雑誌『新亜細亜』(注66)の巻頭言等を一冊の本にして日本評論社から上梓された表記です。(143)

 (注66)「1939(昭和14)年8月から1945(昭和20)年1月まで、満鉄東亜経済調査局が発行した雑誌<。>・・・
 大川周明が中心となって作られ、創刊の辞及び各号巻頭言を執筆している。
 創刊の辞では、「国民は亜細亜のことに関して無関心である」とし、「ここに月刊『新亜細亜』を発行し、西南亜細亜並びに南洋諸島に関する知識の普及に努めることとした」とある。
 地理的には西アジア・南アジア・東南アジアからオセアニアまで、また内容的には政治・経済・宗教・民族・美術・文学と幅広い。
 イスラーム関連の記事に力を入れているのも本誌の大きな特徴である。」
https://www.fujishuppan.co.jp/books/history/%e6%96%b0%e4%ba%9c%e7%b4%b0%e4%ba%9c%e3%80%80%e5%85%a819%e5%b7%bb%e3%80%80%e5%88%a5%e5%86%8a1%e3%80%80%e3%80%90%e5%be%a9%e5%88%bb%e7%89%88%e3%80%91-2/

 なお、日本評論社は、私の最初の著書『防衛庁再生宣言』の出版元であり、若干の個人的感慨を覚えます。

 「『それ民言は、別ちてこれを聴けば即ち愚、合わせて之を聴けば即ち聖』<(注67)>といえる管子<(注68)の言葉は、まさしく千古の真理である。・・・」(144)

 (注67)「「政(まつりごと)の興(おこ)るところは、民心に順(したが)うに在り、政の廃(すた)るところは、民心に逆らうに在り。」
 上の言葉の後に以下の引用が続く。
 人民はだれしも苦労をいとう。だから君主は人民の苦労を除く方法を講じなければならない。
 人民はだれしも貧乏を嫌う。だから君主は人民の生活を豊かにさせなければならない。
 人民は誰しも災難を逃れたい。だから君主は人民の安全をはからなかえればならない。
 人民はだれしも一族滅亡の憂き目を見たくない。だから君主は人民の繁栄をはからなければならない。・・・
 これが四順と言われるもの。
 これができれば、人民は進んで君主のために財も労力も惜しまずに尽くしてくれる、と『管子』は主張する。また刑罰を厳しくして、威圧して服従させることは不可能である、とする。」
https://rekishinosekai.hatenablog.com/entry/2022/06/23/141442
 (注68)「管仲に仮託して書かれた、法家または道家・雑家の書物。・・・実際は戦国期の斉の稷下の学士たちの手によって著された部分が多いと考えられている。また、内容的に見ると、各篇によって異なった学派、思想的立場に立つ人たちの著作がまとめられていると見られ、その面から言えば、実質的には雑家の著作である。「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る。」という言葉はよく知られている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%A1%E5%AD%90
 「管夷吾(かん いご<。?~BC645年>)は、・・・春秋時代における斉の政治家である。桓公に仕え、覇者に押し上げた。一般には字の仲がよく知られて<いる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%A1%E4%BB%B2

⇒支那には、日本の645年に定められた鐘匱の制(かねひつのせい)や1721年に徳川吉宗が設置した目安箱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%AE%E5%AE%89%E7%AE%B1
に相当する制度はなかったようであるところ、一体、どのようにして「民言」を聞けばよい、というのでしょうか。
 民は利を求める、という、「注66」から伺える思い込みがあり、かかる民の欲求に応えよという墨家の思想を実践すれば足りる、ということだった可能性があります。
(中共には、信訪制度という陳情制度が一応あるけれど、それに類する制度が、支那の歴代王朝にあったのかどうか、この信訪制度のウィキペディアには一切登場しません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E8%A8%AA%E5%88%B6%E5%BA%A6 )(太田)

(続く)