太田述正コラム#14356(2024.7.25)
<大川周明『大東亜秩序建設/新亜細亜小論』を読む(その39)>(2024.10.20公開)
「・・・『韃靼漂流記』<(注69)>・・・<で>最も深く吾らの心を打つことは、彼らの目に映じたる満漢人の相異、即ち満州人の漢人に対する道徳的優越である。
(注69)「越前商人の韃靼国(清国)漂流の記録。《韃靼物語》《異国物語》ともよばれる。1644年(正保1)越前国坂井郡三国浦新保村の船頭竹内藤右衛門ら58人は三国港を出帆し,松前へ貿易に赴いたが,途中船が難破して今のロシア沿海州のポシエト湾に漂着した。生存者15名は清国政府の手厚い保護を受け,国都北京へ連行されたのち,翌45年朝鮮を経て日本へ送還された。この記録はその間の経緯を記したものであるが,時あたかも清朝が都を北京に遷した時期にあたり,当時の様子が生き生きと伝えられていて,貴重な記録となっている。」
https://kotobank.jp/word/%E9%9F%83%E9%9D%BC%E6%BC%82%E6%B5%81%E8%A8%98-1183316
彼らは当時の満州人について下の如く述べている。
『御法度万事の作法、ことの外分明に正しく見え申候。上下共に慈悲深く、正直にて候。偽申事一切無御座候。金銀取ちらし置候ても盗取様子無之候。如何にも慇懃に御座候』
然るに漢人は甚だしく彼らと異なる–
『北京人の心は韃靼人とは違い、盗人も御座候。偽も申候。慈悲も無之かと見え申候。去ながら唯今は韃靼の王北京へ御入座候に付、韃靼人も多く居申候。御法度万事韃靼の如く能成候はんと、韃靼人申候』・・・
⇒「元朝は<、>理財<は>色目人貴族の財政運営が招く汚職と重税による収奪が重く、また縁故による官吏採用故の横領、収賄、法のねじ曲げの横行が民衆を困窮に陥れていたが、この政治混乱はさらに農村を荒廃させた。ただし、この14世紀には折しも小氷期の本格化による農業や牧畜業の破綻や活発化した流通経済に起因するペストのパンデミックが元朝の直轄支配地であるモンゴル高原や<支那>本土のみならず全ユーラシア規模で生じており、農村や牧民の疲弊は必ずしも経済政策にのみ帰せられるものではない。中央政府の権力争いにのみ腐心する権力者たちはこれに対して有効な施策を十分に行わなかったために国内は急速に荒廃し、元の差別政策の下に置かれた旧南宋人の不満、商業重視の元朝の政策がもたらす経済搾取に苦しむ農民の窮乏などの要因があわさって、地方では急激に不穏な空気が高まっていき、元朝は1世紀にも満たない極めて短命な王朝としての幕を閉じた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D)
と、清朝とは、創業当時に関しては、天と地ほどの違いがあったわけですね。(太田)
いま大東亜の指導者たらんとしている吾らにとりて、清朝創業当時の歴史は深甚なる教訓を含む。
吾らは専ら欧米の植民政策に学ぶことを止めて、一層誠実に東洋における異民族統治の跡を省みる必要がある。(昭17・4)・・・
インドにおける英国支配の根底は極めて堅く、その方法は最も巧妙である。
それは決して単なる声明や決議に辟易するものでない。
寛厳硬軟あらゆる術策を講じて反英運動を弾圧し離間するであろう。
加うるにインド人の間には、日本に対する反感を抱く者が尠(すくな)くない。
彼らは公然『インドは第二の支那たるを欲せず』と唱えて、たとえ英国と離れても、日本と提携するを好まざる意図を表明さえしている。
ゆえにインド問題の前途は必ずしも楽観を許さない。・・・ 」(160~161)
⇒「加うるに」ではなく、「そのため」です。
大川もまだまだ物の見方が甘いですね。(太田)
(続く)