太田述正コラム#14361(2024.7.27)
<大川周明『大東亜秩序建設/新亜細亜小論』を読む(その41)>(2024.10.22公開)
「明治維新の志士は、尊王攘夷の旗印の下に、日本の革新とアジアの統一とを、併せて同時に理想とした。
彼らは単に日本国内の政治的革新を以て足れりとせず、隣接東亜諸国の改革をも実現し、相結んで、復興アジアを建設するに非ずば、明治維新の理想は徹底せらるべきもないと確信していた。
それゆえに維新精神の誠実なる継承者は、燃ゆる熱情を以て自国の事の如く隣邦のことを考えていた。
⇒ここは、絶対に典拠が欠かせません。
私は、島津斉彬だけがその趣旨のことを暗黙裡に言ったと考えていますが、暗黙裡にせよ、その趣旨のことを言ったところの、斉彬以外の人物を、幕末維新期に見出すことができないからです。(太田)
大西郷の如きは実に下の如く言っている。
–『日本は支那と一緒に仕事をせねばならぬ。それには日本の着物を着て支那人の前に立っても何にもならぬ。日本の優秀な人間は、どしどし支那に帰化してしまわねばならぬ。そしてそれらの人々によって、支那を立派に道義の国に盛り立ててやらなければ、日本と支那とが親善になることは望まれぬ』と。・・・(昭17・11)・・・」(167)
⇒この西郷の言の典拠が示されていませんが、「隆盛は、「敬天愛人」<・・人間主義宣言と言ってよかろう(太田)。・・>などの訓言を座右の銘とする漢学の素養の高い人でした。彼は、<支那>人が財を重んじ、それを一家一族のために残していくのを理想としていたことをよく知っていたと思います。<支那>では新年のおめでたい言葉として、「新年快楽、恭喜發財」が使われ、どの家でも財産ができて、それが蓄積されることを最も大切としているのです。したがって子孫のために立派な田畑を買って遺すことは理想とされている筈です。・・・<ところが、>子孫の為に美田を買わず<、と、西郷は記しています。>・・・この語句の前に「一家の遺事人知や否や……」があり、「西郷家の家訓としては、……」というように一族の訓えという形で残されています。」
https://iec.co.jp/kojijyukugo/vo56.htm
ということからすると、西郷は、漢人達に対し、支那の文明を、漢人文明から中原文明へと「先祖」帰りさせよ、と、日本人が触媒として促すべきだ、と、主張している、と、見てよいでしょう。(注71)
(注71)「西郷<は、>その青少年時代、郷中教育の中で漢学の素養を培い、二度にわたる遠島生活の中で漢詩の作法を学び実作に精出した<。>・・・その時々の師が川田雪蓬であり、児玉天雨であった。・・・
西郷は「仁」に代表される儒教思想を信奉し、陽明学に自縄自縛となり壮絶な最期を遂げるに至った<。>」
https://www.bing.com/ck/a?!&&p=be2c2e859455f585JmltdHM9MTcyMTg2NTYwMCZpZ3VpZD0xOWJmMDZkZi02YjFmLTZlNmQtMDk0NS0xMjRmNmE2NTZmMjEmaW5zaWQ9NTE5MA&ptn=3&ver=2&hsh=3&fclid=19bf06df-6b1f-6e6d-0945-124f6a656f21&psq=%e8%a5%bf%e9%83%b7%e9%9a%86%e7%9b%9b%e3%81%ae%e6%bc%a2%e8%a9%a9%e3%81%a8%e4%b8%ad%e5%9b%bd%e5%8f%a4%e5%85%b8&u=a1aHR0cHM6Ly9wZXRpdC5saWIueWFtYWd1Y2hpLXUuYWMuanAvMTczODkvZmlsZXMvMTUxMTMz&ntb=1
これは、大川が、アジア主義の何たるかを理解していないか、西郷の言を誤読しているか、はたまたその両方であるか、を、示しています。
私は、それに対し、支那を辱めよ、支那と交流を促進せよ、必要あらば軍事力を用いてでも支那に日本国制を継受させよ、と、唱えたところの、彼の上司にして師、たる島津斉彬(コラム#9902)、は、支那人達に対し、支那の文明を漢人文明から(仁政実践も弥生人対処もなかった)中原文明(コラム#14163)への回帰ではなく日本文明へと転換させるべく、日本が直接的・間接的に働きかけるべきだ、と、主張している、と、見てよいと考えており、西郷は、この点でも斉彬の不肖の高弟であった、と、言わざるをえません。(太田)
(続く)