太田述正コラム#14366(2024.7.29)
<大川周明『大東亜秩序建設/新亜細亜小論』を読む(その42)>(2024.10.24公開)

 「戦争の最後の勝敗を決するものは、単に軍制の完備、兵力の強大、兵器の優秀だけではない。
 シュタインメッツがその『戦争哲学』の中で力説せる如く、戦争に敗れることは結局、国民全体の短処欠点を暴露することであり、戦争の最後の勝利を得るためには、国民全体の道義の力を合わせたる結果を以てせねばならぬ。
 如何なる場合においても、国家の最後の運命は国民の一人一人に宿る精神にかかっている。
 純潔なる信仰、曇りなき良心、独立の判断、熱烈なる気概、これらのものが相集まって大国をなし強兵をなすのである。
 ペルシアは百万の大兵を擁して弾丸黒子の如きギリシアを攻め、竟に勝利を得ることが出来なかった。
 清朝は満州の一角に興り、能く膨大なる明国を倒すことが出来た。
 光栄ある勝利を得るためには、偏に数字の上に現れたる兵数と物質とに頼ってはならぬ。
 この事は長期戦において最も然りである。
 今日の日本の指導者の最大の任務は、国民の一人一人に必勝の信念を抱かせることである。
 試みに堀部弥兵衛<(注72)>が大石良雄〔大石内蔵助〕に宛てたる手紙<(注73)>を見よ。

 (注72)堀部金丸(かなまる。1623~1703年)。「元禄7年(1694年)、高田馬場の決闘で活躍した浪人・中山安兵衛(堀部武庸)を見込み、娘・きちと娶わせ婿養子に迎える。・・・
 金丸は婿養子の武庸とともに仇討ちを主張する急進派の中心となった。・・・
 元禄16年(1703年)2月4日、江戸幕府の命により、切腹した。享年77。・・・同志のうち最年長者だった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E9%83%A8%E9%87%91%E4%B8%B8
 (注73)「・・・惣テ私義大切成事ニ至テ他人ハ不及申親子兄弟ニモ不遂相談自分心一パイニ相勤候故、此度モ高田如キニ毛頭カフレ不申候、此状モ日本ノ神他人ハ不及申世悴モ毛頭相談不仕候、併封候自(時)分世悴ニハ読セ申候、且又世悴方ヨリ進候連状致一覧候、尤少ニテモ指図ハ不申聞候・・・」
http://chushingura.biz/sakusha/paso03/gs_siryo/0001/004/01/horibe_yahei01.htm

 堀部父子は各自独立の判断を以て義挙に加盟したので父子のゆえを以て強制したのではない。
 武士道は自由なる男子の道にして、奴隷の従順を教えるものではない。
 もし個人の権威を認めず之を蹂躙し去って顧りみざる如き挙国一致は、一歩誤れば面従腹背、更に進んでは民心の離反を招かずば止まぬ。
 日本の指導者は、宣伝や号令によって国民を率い得るものと考えてはならぬ。
 己の至誠を国民の魂に徹せしめ、国民の一人一人をして誠を以て奉公に励ましめねばならぬ。
 この精神的軍備にして成らば、日本は天を畏るる外また恐るべきものがない。(昭17・12)」(167~168)

⇒大川がこのくだりを書いた1924年12月というのは、同年6月にミッドウェー海戦で「戦局の主導権が<米>側に移行」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E6%B5%B7%E6%88%A6
してから半年も経過した後であり、そんな頃に必勝の信念を叫ぶ彼の頭の構造が私には理解できません。
 とまれ、よく分かるのは、そもそも、大川には、杉山構想の片鱗すら明かされていなかったらしいということであり、彼自身、戦争は(経済力や国民の必勝の信念等を含む)広義の軍事力だけでその目的を達成できるとは限らないという発想が全くなかったらしい、ということです。(太田)

 (続く)