太田述正コラム#14368(2024.7.30)
<大川周明『大東亜秩序建設/新亜細亜小論』を読む(その43)>(2024.10.25公開)
「・・・いまや敵は傷つける猛獣の如く咆哮激怒して反撃を試みんとする。
この戦には妥協がない。
勝たずんば敗れるのみであり、敗るれば第二のインド人となり果てねばならぬ。
もし然らば日本の男子は奴隷となり、女子は英雄を生むために非ず婢僕の母たるために結婚することとなる。
そは決してあり得べからざることである。・・・(昭18・1)
ビルマの・・・オッタマ<(注73)>法師の魂に深刻なる感激を与え、強烈なる国民的自覚をならびにアジア的自覚を喚び起したのは、日露戦争における日本の勝利であった。
(注73)ウー・オッタマ(U Ottama。1879~1939年)。「本名はポートウンアウン。アラカン州アキャブ町の出身。過激な言動は宗門界から異端視されたが、植民地時代におけるビルマの民族運動に強い影響を与えた。16歳で得度、19歳で具足戒を受けた。出家のままインド、エジプト、フランス、日本、<支那>、安南(現ベトナム)などを歴訪して1918年に帰国。インド滞在中に国民会議派の運動に触発され、帰国後は反植民地講演を各地で行い、民衆の政治意識を啓蒙した。1922年に政府誹謗罪で逮捕投獄され10か月間服役し、1923年にも再逮捕されて3年の刑に服した。その後納税拒否運動を指導して1928年に三度目の投獄にあった。1939年9月、ラングーン(現ヤンゴン)市内で行き倒れとなり死去。著書に『日本国事情』・・『ジャパン』 (1915)・・がある。」
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伊藤祐民(1878~1940年)は、「愛知県名古屋市出身の実業家。松坂屋を株式会社化し、初代社長に就任。・・・
小学校高等部卒業の後は当時の商家の倣いで進学せず、自宅で個人教授を受けた。教授となったのは雅楽の恒川重光、龍笛の吉田種彦・山井基万、謡曲の尾崎浪音、茶道の松尾宗幽(松尾流八代)、水彩画の野崎華年、狂言の五代目河村武七、漢文の増田白水、漢学の井上雅川、弓道の星野勘左衛門などで、父や祖父からも茶道、和歌、国文学、雅楽、書道などの手解きを受けている。・・・
代々の伊藤家当主と同様に仏教への信仰に篤<かった。>・・・1910年(明治41年)、いとう呉服店栄店の開店当日、店に偶然立ち寄ったウ・オッタマ・・・との交流はその後の祐民に大きな影響を与えた。ビルマの僧侶であり、独立運動家でもあったオッタマは浄土真宗本願寺派第22世法主・大谷光瑞の招きで来日、日本の実状を見聞すべく東京まで歩いて旅をする途中であったという。
来日したオッタマは伊藤家に宿泊することも度々で、ビルマからの留学生受け入れを口約束した祐民の元に6人の留学生を送り、祐民は自宅で同居(後に一軒家を借りて「ビルマ園」と名づけた)しながら日本語や作法などを教え、その後は日本の学校で学ばせている。これは後に伊藤家の別荘揚輝荘に多くの海外留学生を受け入れるきっかけともなった。オッタマの来日がイギリス政府によって禁止された後は1934年のビルマ・インド歴訪の際に再会、共に仏跡を巡っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E7%A5%90%E6%B0%91
⇒伊藤祐民が受けた自宅での教育の内容には驚きました。(太田)
かくて明治40年、齢30の時に初めて日本に来りてより、日緬の間を往復すること前後5回、故国に帰りては仏堂修行と国民運動の指導に献身し、日本に来りては国体の尊厳と日本精神の本質を学ぶに努めた。
法師は深く日本を知るに及んで、日本の指導によるアジアの解放ならびに統一が、アジアの辿るべき政治的運命なることを明瞭に看取し、この信念の下にビルマ民衆を指導した。
而してその学徳のゆえを以てビルマ人からは慈父の如く慕われ、その無所畏の運動のゆえを以てイギリスからは強敵として憎まれながら、昭和14年9月10日、62歳を以てこの世を逝るまで、ビルマ独立のために、高潔無私なる而して多苦多難なる生涯を献げた。」(168~169、176~178)
⇒支那はもちろんですが、英領インドに比べても、英領ビルマから日本への亡命者や留学生等が殆ど来ていなかったようであるのは、ビルマが貧しかったことが最大の理由なのでしょうが、今日のビルマ(ミャンマー)の惨状に繋がった感が否めません。(太田)
(続く)