太田述正コラム#14372(2024.8.1)
<大川周明『大東亜秩序建設/新亜細亜小論』を読む(その45)>(2024.10.27公開)

 「・・・アジアは、これを全体について言えば、実に人類の魂の道場であり、ヨーロッパは、人類の知識を鍛える学堂であった。
 それゆえにアジアの歴史は、根本において精神的であり、その革新または推移は内面的なりしがゆえに、表面に現れたる政治的ないし経済的変化は、ヨーロッパのそれに比べて自ずから影薄からざるを得ず、往々にして人の意識にも上らなかった。
 加うるにその変化は、徐ろに内面より行われたる上に、昔ながらの形式および名称が、実質全く変り果てたる後までも、不思議なる執着をもって固執せられ、そのために一切の変化が一層不鮮明の度を加えた。
 かくの如くにしてアジアは、祖先の精神、祖先の信仰、祖先の遺風を、昔ながらに護持し、しかしてこれを後昆に伝えることを、最も神聖なる義務と考える。
 その極端なるものに至りては、人間およびその社会組織は必ず発達か退転かの一を免れざること、ないし時勢の推移が何者をも変化させずばやまぬということを、強いて考えまいとしている。
 かくして万代不易ということが、アジアの最も有力なる生活理想となった。

⇒アジアと欧州とを、魂(精神性)と知識、保守主義と進歩主義、で対比させるのは、どちらもアジアに関し、その中の日本と中原文明時代の支那には当てはまらない点だけからも、ナンセンスです。(太田)

 もとよりヨーロッパにも保守主義者<(注75)>がいる。

 (注75)「歴史的・有機的な社会秩序への人為的介入の排除とその漸進的改革が保守主義の思想的特徴である」
https://kotobank.jp/word/%E4%BF%9D%E5%AE%88%E4%B8%BB%E7%BE%A9-133050

 されど少くとも彼らは社会進化の法則を承認する。
 彼らと進歩主義者との論争は、ただ正しき速度と、精確なる方向とに関してである。
 アジアの保守的精神は即ち然(さ)らず、時間の流れに超出して、万古不動を固執する。
 そは宛(あたか)も舟中の人が堅く瞑目して両岸を見ざるがゆえに、水流れず舟進まずとするに似通う。
 このアジアの保守主義は、いうまでもなく利害相伴う。
 その善を挙ぐれば、この精神あるがゆえにアジアは過去における真個に価値あるものを護持し、文化の中断せざる系統を相承することが出来た。・・・
 例えばこれを吾ら日本人自身の意識について見る。
 吾らは万葉集の歌を詠み、能狂言を見て、現に吾らの文学的・芸術的要求に満足を与えている。
 千年以前の歌謡、数百年以前の舞踊が、そっくりそのままの姿を以て、昨日読み出でられたる歌のごとく、また今日舞い初められたる舞のごとくに味い楽しまれるというようなことは、唯だアジア意識のみ能くするところであり、ヨーロッパにおいて決してその例を見ぬところである。 」(184~185)

⇒完全な間違いです。
 欧州に関して一例だけ挙げますが、「グレゴリオ聖歌は、主に9世紀から10世紀にかけて、西欧から中欧のフランク人の居住地域で発展し、後に改変を受けながら伝承した。・・・グレゴリオ聖歌<は>、1980年代から90年代<においても、>ニューエイジ・ミュージックやワールドミュージック隆盛の中で、大衆的な人気を得た<ところだ>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%82%AA%E8%81%96%E6%AD%8C
という事実があります。(太田)

(続く)