太田述正コラム#14380(2024.8.5)
<杉浦重剛/白鳥庫吉/松宮春一郎『國體真義』を読む(その3)>(2024.10.31公開)

 「・・・勿論支配者が神であるとか、また神の子孫であるといふ信仰は外国にもあるのではあるが、それは唯或る時代だけに限られていゐる。
 然るに我が国では、皇室は神の御子孫であらせられて、天皇はいつも現神で在(おは)しますといふ信仰が永久にゆるぎないのである。」(24)

⇒江戸時代初期と明治維新直後における、日本の庶民の天皇観は対照的です。↓
「オランダ商館付きの医師エンゲルベルト・ケンペル(元禄3年 1690年来日)<は、その>「「日本誌」<の中で、>・・・天皇は現にその権限(教界に属する事項)を享有し、神々の正統な後継者として認められ、現つ神(あきつかみ)として国民から尊敬されているのである・・・<、と記しているのに対し、>明治5年(1872年)、新橋・横浜間鉄道開業式に向かう天皇の馬車を見物する人々を見て、イギリスの画家・漫画家のワーグマンは「畏敬の念を持つ様子もなく、ただじろじろ見ているだけだった」と自ら書いた絵に解説を入れてい<る>。」
http://jjtaro.cocolog-nifty.com/nippon/2013/01/post-3ca6.html
 いずれにせよ、「明治2年2月、政府は全国各地で「天皇は神である」、「日本は神州である」という趣旨の告諭を発した。「奥羽人民告諭」は次のように始まる。「天子様は、天照皇大神宮様の御子孫様<(注3)>にて、此世の始より日本の主にましまし、神様の御位正一位など国々にあるも、みな天子様より御ゆるし被遊候わけにて、誠に神さまより尊く、一尺の地、一人の民も、みな天子様のものにて、日本国の父母にましませば」(原文カタカナ)、天子様に敵対した者は死罪にしても当然なのに、「叡慮寛大」(心が広く)であって、「会津の如き賊魁」(松平容保のような大悪人)の命さえ助けた…と続く。

 (注3)「なぜ明治初期においてアマテラス=天皇というイメージが強調されたのだろうか。その理由としては、幕末期においてアマテラスが民衆の間で広範に普及し、幕藩体制を超える世界像を想像する媒体になったことを挙げることができる。例えば、幕府に反旗を翻した大塩平八郎や生田万はアマテラスを旗印や檄文に引用し・・・、安政大地震の鯰絵の一部・・・では地震で崩壊した江戸の街を救済する新しい為政者としてのアマテラス・・・が幻視された・・・。
 アマテラスのイメージのヴァリエーションが拡大した端的な理由としては、第一に伊勢信仰の全国的拡大を挙げねばならない。伊勢外宮の御師が組織した伊勢講の檀家は、1777年時点ですでに全国に及んでおり、483万9549軒に達していた・・・。1830年の集団参宮(いわゆる「おかげまいり」)では、参宮者が500万人近くを記録した。なお、参加した層は「きわめて多様」だったが、「子供・女・下男下女など被抑圧的な人々が多かった」とされる・・・。アマテラスは、幕末において、被抑圧者たちに既成秩序の枠を超える希望を与える媒体として成長していったのである。
 このことを如実に示すのが、「世直し」を唱えた幕末の新興宗教である。黒住教・天理教・金光教における「世直し」的世界観を考察した鹿野政直によれば、これらの民衆宗教は、それまで農民を縛っていた価値観から彼ないし彼女らを解き放ち、神の意にかなう新しい秩序のあることを示したものだという・・・。・・・興味深いことは、この三宗教がいずれもアマテラスあるいはアマテラスに由来する神を基軸に絶対平等のユートピア社会を「世直り」後の世界像として謳っていることである・・・。また、1867年の「ええじゃないか」は、「世直し」とアマテラスが直接的に結びつけられた社会運動の端的な例である。この運動はアマテラスの御札降りを契機にしたオルギー的運動だったが、「ええじゃないか」の囃子言葉の中に「世直り」の語が含まれているゆえに、「世直し」の側面がある・・・。
 ・・・幕藩体制への対抗原理にアマテラスが用いられる根拠は、それが〈権力の始点となる審級〉だという点にある。既成権力の正統性に疑惑を抱いた者たちは、権力の始点により近い、より正統な権威を身にまとい、新しい正統性を自らの側に引き寄せようとしたのである。
 維新政府による人民告諭がアマテラスと天皇とを重ね合わせたことに、国学や水戸学が関連していたことは自明である。しかし、正統化のロジックは、為政者側だけの思い込みでは成立しない。
 問題はそのロジックが告諭の受け手である民衆のレベルで有効かどうかである。幕末期の民衆の間でアマテラスが新秩序への「世直し」の希望として見出されていた状況は、維新政府の正統化原理を有効たらしめる絶対条件だった。」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/genderhistory/2/0/2_0_5/_pdf/-char/ja

 「神様の御位正一位」とは稲荷大明神のこと。正一位は天子様からもらったもので、天子様はお稲荷さんより偉いのだと説明する必要があった。
 同趣旨のものは、すでに明治元年10月、「京都府下人民告諭大意」として発表されている。「我国は神州と号て(号して)、世界の中あらゆる国々我国に勝れたる風儀なし。…抑(そもそも)神州風儀外国に勝れたりと云は、太古天孫(天子様の御先祖)此国を闢(ひら)き給ひ、倫理を立給ひしより、皇統聊(いささかも)かはらせ給ふ事なく…」(原文カタカナ、括弧内は筆者注)と、天皇が続いてきたから日本は世界中でもっとも勝れた国なのだと説いている。なおこの京都の告諭は翌年2月、全国に広められた。」
https://www.gendainoriron.jp/vol.16/feature/f09.php
という事実からすると、幕末/維新期において、天皇が神でもあるなどという天皇観は、日本の庶民の間では払底していたことは間違いないでしょうね。
 それなのに、どうして、その後、天皇現人神観が戦前の日本で確立した・・復活した?・・のでしょうか。
 「日露戦争で・・・天皇の軍隊が、「神州風儀外国に勝れたり」ということを証明した<ところ、>・・・日本では、徳川家康であろうと、佐倉惣五郎であろうと、田中正造であろうと、そしてまた祖先たちをも・・・死んでから・・・神として祀る<以上>・・・、ロシアに勝った天皇ならば、生き神様でもよいではないか」(上掲)ということだったのでしょう。
 すなわち、ここでも、白鳥は、実証に基かない、自分の思い込みを述べているわけです。(太田)

(続く)