太田述正コラム#14384(2024.8.7)
<杉浦重剛/白鳥庫吉/松宮春一郎『國體真義』を読む(その5)>(2024.11.2公開)

 他方、その日蓮は、『聖人御難事』の中で、「天照太神の御厨は右大将・源頼朝が建立した日本第二の御厨でありましたが、今では日本第一の御厨です」(意訳)と記し、『新尼御前御返事』の中で、「安房の国の東条の郷は辺国ではありますが、日本国の中心のようでもあります。その理由は天照太神が東条の郷に跡を垂れたからです。昔は伊勢の国に跡を垂れていたのですが、日本の国王は八幡大菩薩や加茂明神への御帰依が深く、天照太神への御帰依は浅かったので太神が嗔っていた時に、源右将軍頼朝という人が御起請文を以て会加の小大夫に仰せつけていただきささげ、伊勢の外宮にひそかに御納めしたところ、太神の御心に叶ったのでありましょう。頼朝は日本を手に握る将軍となったのです。源頼朝は東条の郷を天照太神の御栖と定められました。故に天照太神は伊勢の国にはおられず、安房の国・東条の郡に住まわれるようになったのでしょう。例えば八幡大菩薩は、昔は西府におられましたが、中頃は山城の国の男山に移られ、今は相州鎌倉の鶴岡八幡宮寺に栖まわれているのと同じことなのです」(意訳)と記すとともに、曼荼羅本尊において教主釈尊の垂迹として天照太神と八幡大菩薩を配列している
https://buddhist-study.jimdofree.com/%E5%A4%A9%E7%85%A7%E5%A4%AA%E7%A5%9E%E3%81%A8%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%A4%A7%E8%8F%A9%E8%96%A9%E3%81%8B%E3%82%89%E8%A6%8B%E3%82%8B%E5%A6%99%E6%B3%95%E6%9B%BC%E8%8D%BC%E7%BE%85/
こと、更には、天照大神が、「太陽神の性格と巫女の性格を併せ持つ存在」である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%85%A7%E5%A4%A7%E7%A5%9E
ことを踏まえれば、日蓮主義者達が制定したところの、日章旗や旭日旗、が、日蓮「と」天照大神「両方」の象徴であったとしてもおかしくはないわけだ。
 その上で、日章旗を日本の国旗であると実質的に決めたのが、いずれも日蓮主義者であったところの、徳川斉昭と島津斉彬、の二人、または、徳川斉昭一人、だった(コラム#14216で触れた)として、彼らないし彼の念頭に天照大神もあった可能性はあるのだろうか。
 斉昭に関しては、「朱子学者の山崎闇斎が提唱した垂加神道は、他の儒学者の神道説とは異なり易姓革命を否定して<おり、>闇斎は天皇と臣下との関係は不変であるとし、臣下のあるべき姿を説いた<ところ、>水戸学は栗山潜鋒を通じて垂加神道の影響を受けていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%92%E5%AE%B6%E7%A5%9E%E9%81%93
上に、「垂加神道は、天照大御神に対する信仰<に基づき、>大御神の子孫である天皇が統治する道を神道であると定義づけ、天皇への信仰、神儒の合一を主張し、尊王思想の高揚をもたらした」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9E%82%E5%8A%A0%E7%A5%9E%E9%81%93
というのだから、イエスと言ってよさそうだ。
 では、斉彬に関してはどうか?
 「照國神社<は、>・・・照國大明神・・・を祀<ったが、この>祭神は薩摩藩第11代藩主の島津斉彬<であるところ、彼>・・・は島津家28代当主で安政5年(1858年)7月に50歳で急逝するが、文久2年(1862年)に祭神の遺志を継いだ弟久光と甥忠義が鹿児島城内西域の南泉院郭内に祭神を祀る社地を選定し、翌3年5月11日に孝明天皇の勅命による「照國大明神」の神号授与を受けて祠を造営したのが創祀で、翌元治元年(1864年)に改めて東照宮が建っていた地に社殿を造営し、照國神社と称した<ものであり、>明治6年(1873年)に県社に列し、同15年(1882年)には別格官幣社に昇格。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%A7%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE
ということから、これが、斉彬に意に添わぬものであったとは考えられない以上、日蓮主義者のみならず日蓮正宗信徒でもあったにも拘わらず、斉彬が神道に否定的ではなかったことは間違いなかろう。
 (わき道にそれるが、反日蓮主義者で縄文モード維持を願っていた孝明天皇と日蓮主義者で弥生モード転換どころか日蓮主義戦争遂行を追求していた島津斉彬とは相容れないものがあった筈ですが、孝明天皇にその自覚がなかったのだろう。もとより、1862~1863年に関白・内覧を務めていた近衛忠熈
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BF%A0%E7%85%95
が孝明天皇をうまく丸め込んだのだろうが・・。)
 しかし、日蓮正宗は、日蓮諸宗の中で例外的に日蓮本仏論に立っている以上、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE%E6%AD%A3%E5%AE%97
斉彬が、それとは相容れない筈の天照大神尊崇者でもあった、とは考えにくい。
 いずれにせよ、日章旗制定には斉昭がからんでいて、しかも、それは、徳川幕府としての制定だったのだから、日章旗は日蓮の象徴であることは確かながら。天照大神の象徴でもある可能性も排除はできない、ということになりそうだ。
 次に旭日旗だが、これは、新政府による制定であり、その制定を主導したのは近衛家/島津氏であったはずである以上、それは日蓮だけの象徴、と受け止めるべきだろう。
 ところで、韓国の(私が言うところの)文カルトは、日章旗は認め、旭日旗は日帝の侵略主義の象徴として否定しているが、前者は徳川幕府が、後者は新政府が、制定したことに鑑みれば、論理的にはそれなりに一貫している。
 だからこそ、同カルトは、戊辰戦争の官軍側の犠牲者の慰霊から始まったところの靖国神社
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%96%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE
も否定しているわけだ。
 これは、事実上、昭和天皇家のホンネの史観でもある。(部外用レジメ第二部(未公開))

 この論理に対抗するためには、維新後の日本に「坂の上の雲」の時代があったことを前提とする司馬史観・・これは丸山眞男史観でもある・・(コラム#省略)ではなく、私の、日蓮主義史観、に立脚するほかあるまい。

(続く)