太田述正コラム#14390(2024.8.10)
<杉浦重剛/白鳥庫吉/松宮春一郎『國體真義』を読む(その8)>(2024.11.5公開)
「・・・天皇が神であらせられるといふことは、上代の日本人が哲学的に考へた訳でもなく、また今日の日本人でも多数は哲学的に考へてゐる訳ではない。
それで全知全能の神といつたやうな、学問的の言葉でいひ表はすことは、日本人にはふさはしくない。
たゞ天皇は人民を愛せられ、一途に国家の隆昌のみを願つて居られる。
仁の塊であり、愛の塊であり、真の塊である。
⇒天皇は、その大部分、名前に「仁」が含まれており(コラム#省略)、そうありたい、という意思が歴代天皇の大部分にあったことは確かです。(太田)
我々人間とは種を異にし給ふ御方であると考へて、これを現人神と拝し奉つたのである。・・・
科学的知識の発達した現在に於てすら、欧米人の多数は、歴史的実在のエス・キリストを神の子として尊崇し、また東洋人の多数派歴史的実在の釈迦牟尼を仏として同じく尊崇してゐる。
宗教信仰を持たぬ者でも、キリストや釈迦を神仏として尊敬するといふ信念だけは持つてゐる。
本国の支那では神とされない孔子を、日本では神として尊敬する。
⇒既述したように、孔子の話は白鳥の無知の吐露です。(太田)
それ故我々日本人が、天神天照大神の御後として天降られた天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の御子孫たる天皇を、現人神と信ずることは決して道理にもとることではない。
⇒このくだりの理屈は悪くないですね。(太田)
<さはさりながら、>過去の君臣の関係が我が国の精華であつたやうに、将来も古来よりの君臣の関係が、我が国の光輝であり得るか・・・。
これ<も>また疑ふ餘地がない。
⇒白鳥が知る由もないとはいえ、残念ながら、この次の部外用レジメでも記すように、この期待に昭和天皇家が応えている、とは言えそうもありません。(太田)
何故ならば、如何なる国に於ても、常に必ず治者と被治者とは対立する。
そして被治者の側から治者を見る場合には、治者が仁愛に富み、公平であり、一念国家のことを念とせられる方を要望しないものはない。
これが完全に実現せられない為に、国によつては革命を起したり、君主を取換たり、王朝を廃して共和制となして新(あらた)に大統領をたてたり、また思はしくないからといつて再び混乱し、元の君主制に復したりするやうなことが続々と起つて来るのである。
要するに、君主が神の如くあれかしといふことを臣民が要望する結果に外ならない。
幸(さいはひ)に我が国はこの理想が実現せられて居るのである。
歴史的にいふも、遺伝的に考ふるも、我が國體は人間が生んだ理想的の産物といはねばならぬ。
何を苦しんで、共和政治などを夢見る必要があらうか。
かうした我が國體はひとへに皇道の行はれた結果といはねばならぬ。・・・」(34~35)
3 杉浦重剛「國體と理学宗」を読む
「・・・武士の手本として永く社会を感動せしめてゐる忠臣蔵に就いて考へて見るに、あの47士が忠勇義烈の心にこりかたまつて、あらゆる辛苦をなめ、竟に故主の仇を復して本懐をとげ、その結果切腹を命ぜられたやうなの<は>、・・・47人の義士が各々十分の満足を得たばかりでなく、後世に到るまでその風をきくものをして、義を勇む念を起さしむるのは、みなその費して報いられなかつた労力の結果である。
もしこの47士が切腹を賜はらずして高位高禄に用ゐられたならば、必ず今日のやうに世間の人々を感動せしめることは出来なかつたであらう。」(39)
⇒杉浦重剛(コラム#12650等)は、一応、日蓮主義者と言ってよいでしょうが、やはり、赤穂事件については、一般に流布している一面的な見方を所与のものとしてしまっていますね。(太田)
(続く)