太田述正コラム#14396(2024.8.13)
<杉浦重剛/白鳥庫吉/松宮春一郎『國體真義』を読む(その11)>(2024.11.8公開)

 「・・・北畠親房が神皇正統記を著はしたのは、南朝の正統なる所以を天下に示し、大義名分の存するところを明かならしめんと欲したのである。
 近くは徳川光圀が大日本史を修めたのも同一趣旨に外ならない。・・・
 政権武門に帰するに及び、昭々たる大義名分、聊か暈翳(うんえい)を生じたるの観あるも、これは一時の変態であつた。
 後醍醐天皇が討幕の師を挙げさせ給ふに及び、新田、名和、楠、児島等勤王の諸士、大義によつて興起し、北条を倒して、一時建武中興の業を為すことを得た。
 足利15代は大義名分の最も紊れた世であつた。
 天子の権力は将軍に、将軍の権力は管領に、管領の権力は執事(しつし)に、大権次第に下に移つた。
 されど織田信長興起するに及び、天使の尊ぶべきことを天下に知らしめた。
 即ち大義を明らかにし、名分を正しうしたものである。
 秀吉も信長の志をついだ。
 徳川氏の世となつては、幕府政権を掌握して朝威なほ未だ盛ならず、徳川光圀、大日本史を編して尊王の大義を明かにし、また賀茂真淵、本居宣長等の如きは、国学を研究して、國體を明かにした。・・・
 また山鹿素行の如きは「中朝事実」といふ一書を著し、日本を以つて中朝と称した。
 宝暦・明和の頃には、竹内式部、山県大弐等勤王の論を唱へた。

⇒竹内式部、山県大弐、については、今月24日のディスカッションに掲載する「日本のユニークさと普遍性–世界史の観点から(続)」も参照。(太田)

 大弐の遺著・・・宝暦9年(1759)成立。徳川家が天下を治めることは大義名分に反すると主張したために、倒幕を扇動した廉で明和4年(1767)に大弐は処刑された(明和事件)・・・には開巻第一に正名を論じ、名分の正すべきことを述べてゐる。
 高山正之<(注4)>、蒲生秀実<(注5)>の如き、孰(いづ)れも尊王の大義を唱へたことは言を待たない。」(56~57)

 (注4)高山彦九郎(1747~1793年)。「尊皇思想家。林子平・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の一人(「奇」は「優れた」という意味)。諱は正之<。>・・・二宮尊徳や楠木正成と並んで戦前の修身教育で取り上げられた人物である。・・・
 先祖は平姓秩父氏族である高山氏出身で、新田義貞に仕えた新田十六騎の一人である高山重栄。・・・
 13歳の時に『太平記』を読んだことをきっかけに勤皇の志を持ち、明和元年(1764年)、18歳の時に置文(高山神社蔵)を残して京都へ出奔した。・・・
 自刃・・・の原因としては・・・彦九郎が京都の公卿方の反幕府の密命を受けて薩摩藩を説伏に行ったがうまくいかなかったことを理由とする説がある。日記には鹿児島出立後尾行者のあることが見えるので、幕府の密偵による監視により京都に戻れなかったとも考えられる。・・・その後江戸へ出て細井平洲に学ぶ。・・・
 明治2年(1869年)12月、王政復古に尽力した功労者として、子孫に三人扶持が下された。明治11年(1878年)3月8日、贈正四位。・・・群馬県太田市に、高山彦九郎を祀る高山神社が建てられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%BD%A6%E4%B9%9D%E9%83%8E
 「江戸・京都・細谷(現太田市)を拠点として、全国各地を遊歴し、学者・文化人だけでなく、京都の公家や諸国の藩主・武士・神官・農民など様々な人々と交流し・・・<その・・・勤王・・・思想と情報は、地域や階層を超えて伝わり、日本の歴史を動かす原動力ともなりました。」
https://www.city.ota.gunma.jp/site/kankou/1031632.html
 (注5)蒲生君平(1768~1813年)。「姓は、天明8年(17歳)に祖先が会津藩主蒲生氏郷であるという家伝(氏郷の子・蒲生帯刀正行が宇都宮から会津に転封の際、福田家の娘を身重のため宇都宮に残し、それから4代目が父の正栄という)に倣い改めた。君平は字で、諱は秀実<。>・・・父は町人福田又右衛門正栄で、油屋と農業を営む。・・・
 天明2年(1782年)14歳の時、鹿沼の儒者鈴木石橋の麗澤舎に入塾した。・・・塾では『太平記』を愛読し、楠木正成や新田義貞らの後醍醐天皇への忠勤に感化され、勤皇思想に傾斜した。」・・・
 かれは、彰考館総裁立原翠軒や盟友藤田幽谷から影響を受け、水戸藩に代わって制度史を編纂しようとしたのである。また、主著『新論』で知られる会沢正志齋とも生涯にわたって交遊があり、会沢は君平歿後には遺稿集の編纂や君平著作の出版などにも関係していた。
 平田篤胤は君平の友であり、水戸学の藤田幽谷とは互いに多大な影響を与え合う関係にあった。人を褒めたことがないと言われた篤胤は「兵の道をも習い究め、心たけき壮士であった」と人となりを褒めたたえている。江戸では、曲亭馬琴の知遇を得て、馬琴は君平の死に際し『蒲の花かつみ』を書き記した。
 明治2年(1869年)12月、君平はその功績を賞され、明治天皇の勅命の下で宇都宮藩知事戸田忠友により勅旌碑(ちょくせいひ)が建てられた(宇都宮市花房3丁目と東京谷中臨江寺)。さらに明治14年(1881年)5月には正四位が贈位されている。宇都宮市では蒲生神社(1925年創建)に祭神として祀られているほか、生家跡を示す碑が建てられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E7%94%9F%E5%90%9B%E5%B9%B3

⇒竹内式部、山県大弐、高山彦九郎、蒲生君平・・『大日本史』を補完する書を編纂しようとした!・・、は、いずれも、徳川吉宗が刊行を認めたところの、水戸藩が編纂した『大日本史』の影響を受けている、と、私は考えています。(太田)

(続く)