太田述正コラム#14404(2024.8.17)
<杉浦重剛/白鳥庫吉/松宮春一郎『國體真義』を読む(その15)>(2024.11.12公開)
「・・・今日の我が国に於て、我が國體の特殊性を説明するものとして、一般に弘く行はれてゐるものは、族制<(注4)>説であります。
(注4)「家族・氏族などのように、集団が血縁関係をもとにして組織されている制度。」
https://kotobank.jp/word/%E6%97%8F%E5%88%B6
我が国は、君民同祖であつて、しかも全体の組織が家族の体制を有するといふのが族制説の眼目であります。
けれども仔細に究めると、自ら諸種の説があります。
その代表的なものを二三挙げますと。
朝廷は大家(オホヤケ)と称し奉りて、天下万姓の総御本家なり。天子は民の父母と称して天下万姓の総御大祖なり。–角田忠行<(注5)>–
(注5)つのだただゆき(1834~1918年)。「信濃国佐久郡長土呂村(現長野県佐久市)の近津神社の神主角田忠守・・・の二男として生まれる。父は岩村田藩主の侍講、藩校達道館教授を務め、終身禄を受け藩士身分となった。・・・
安政2年(1855年)脱藩して江戸に出奔し、藤田東湖に入門。その後は国学者平田銕胤の門人となって塾の運営に関わった。文久3年(1863年)上洛して等持院にある足利三代木像梟首事件に首謀者の一人として関与し、・・・戊辰戦争では秋田藩の官軍恭順に尽力した。
維新後は明治政府に出仕し皇学所監察、学制取調御用掛、大学奏任などを務め、賀茂御祖神社少宮司、廣田神社宮司を経て、明治13年(1880年)熱田神宮大宮司となり、大正3年(1914年)までその職を務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E7%94%B0%E5%BF%A0%E8%A1%8C
⇒足利三代木像梟首事件は、北朝の後裔たる孝明天皇に対する反逆行為でもあった筈なのに、維新政府がその首謀者の一人である角田を重用したというのですから、孝明天皇の子の明治天皇もいい面の皮ですね。(太田)
帝室はその起原を開闢と共にし、帝室以前日本に家族なく、今日まで国中に生々する国民は、悉く皆その支流に属す。–福沢諭吉–
日本は総合家族制度である。個々の家族を引括した一団体をなし、即ち一大家族をなして、その上に家長があり、統率して行く所に総合家族制度が成り立つ。その一大家族制度の家長として、天皇があらせられる。–井上哲次郎<(コラム#10185、10866、11175、12833、13274、13381、13863、14258)>– ・・・
亘理章三郎<(注6)>・・・東京高等師範学校教授は、・・・族制説を血統の上のみから考へることはその根拠が薄弱なりとし、体制といふことを考慮に入れ、我が国は拡皇室の族制国家であ<って、>・・・他民族の入り来つた為に國體の変動を生じない。・・・との説を立て<た。>
」(103~104)
(注6)わたりしょうざぶろう(1873~1946年)。「東京高等師範学校教授(大正14(1925)年)文部省視学委員(大正15(1926)年)道徳教育の権威者<。>・・・篠山藩士族亘理直方の三男として西新町にて出生。明治、大正から昭和16(1941)年退官まで、当時代の「国民道徳本論」を中心に著書も多く、教育界で活躍した人物である。」
https://www.city.tambasasayama.lg.jp/photo_history/2/jinbutu/senkennoashiato/18676.html
⇒最低限亘理説でなければ話にならないと思うのですが、福澤諭吉も相当いい加減なところがあったわけです。(太田)
(続く)