太田述正コラム#14406(2024.8.18)
<杉浦重剛/白鳥庫吉/松宮春一郎『國體真義』を読む(その16)>(2024.11.13公開)

 「・・・族制説に対して、海軍中将佐藤鉄太郎<(コラム#4759、5730、6404、13082、13084、13183、13266、13284)>氏は、次のやうに言つてをられます。
 ・・・我が國體は決して家族主義の転化にあらずして、絶対位を中心として確立したる神来の理想的國體なり。家族的観念を犠牲として絶対位に向ひ奉献するは、我が国上世の歴史に於て明かなり。我が国には君を離れては国なきが如く、忠を離れては孝道もなく、仁なく、貞悌なく、信なく、信なくまた勇なきはもちろんなり。換言すれば忠道を離れて人道なく、たゞ一念絶対位に向ひて無上なる忠誠を尽すを以て、人道の精華なりと確信せざるべからざるなり。–帝国々防史論–
 さらに最も強烈な反対者は、文学博士鹿子木員信<(コラム#10043)>であります。・・・
 ・・・我等日本民族本来の宗教は決して特に取り立て、之を祖先崇拝と称し得るものではない。祖先崇拝は異邦的外来の思想に過ぎぬ。孝行道徳亦然りである。我等独特の道徳は忠義の徳であつて、決して忠に両立する孝の徳ではなかつた。此等の「祖先崇拝」「孝行道徳」等は、支那人の徹底的家族主義の結果に外ならぬ–我等はより尊きものを知るものである。・・・–平和の理想と我等–

⇒鹿子木は族制説を批判するだけで、自分の説を唱えてはいないということのようです。なお、佐藤も鹿子木も、帝国海軍出身ですね。(太田)

 <以上の全てが間違いではないでしょうか。>
 新しい時代は、新しい思考の基礎を要求するのであります。
 この要求を充たすべく現れんとするのが、・・・真理説であります。・・・

⇒この真理説なるもの、余りにばかばかしいので、紹介するのを端折りました。
 なお、私に言わせれば、日本の国体は人間主義で天皇はその人間主義の象徴、で終わりです。(太田)

 イギリスの前首相ロイド・ジョーヂは曾つて「現<英>皇室を倒さうとする運動に対しては如何なる犠牲を払ふも打負けてはならない。何となれば、皇室を中心とすることによつて、大英国の一致を保つことが出来るのであるから」と申しました。・・・」(105~107、111、117)
 
⇒ロイド・ジョージがそんなことを言ったとすれば、「1870年代に,ヴィクトリア女王時代の皇太子エドワードは数々のトラブルを引き起こして,王室に対する国民の反対を高めた」
https://www.bing.com/ck/a?!&&p=83d23edc2573e4d3JmltdHM9MTcyMzg1MjgwMCZpZ3VpZD0xOWJmMDZkZi02YjFmLTZlNmQtMDk0NS0xMjRmNmE2NTZmMjEmaW5zaWQ9NTIzMQ&ptn=3&ver=2&hsh=3&fclid=19bf06df-6b1f-6e6d-0945-124f6a656f21&psq=%e3%82%a4%e3%82%ae%e3%83%aa%e3%82%b9+%e7%8e%8b%e5%88%b6%e5%bb%83%e6%ad%a2%e8%ab%96&u=a1aHR0cHM6Ly9reW90b2dha3Vlbi5yZXBvLm5paS5hYy5qcC8_YWN0aW9uPXJlcG9zaXRvcnlfYWN0aW9uX2NvbW1vbl9kb3dubG9hZCZpdGVtX2lkPTk1Jml0ZW1fbm89MSZhdHRyaWJ1dGVfaWQ9MTkmZmlsZV9ubz0x&ntb=1
ところ、このエドワードがエドワード7世として1901~1910年の間在位したことで、王制廃止議論が起っていたということかもしれません。
 実際、「1869年、バーティ<(エドワードのこと)の英皇太子時代、そ>の友人である地主・庶民院議員第10代準男爵サー・チャールズ・モーダントの妻ハリエットが子供を身ごもったが、この子供はモーダントの子供ではなかった。怪しんだモーダントは妻の机を調べ、そこからバーティはじめ複数の男性から送られた手紙を発見し、彼らが妻の浮気相手と確信した(バーティ自身はモーダント夫人とは友人なだけだったが)。
 モーダントは、妻の不貞を理由に離婚訴訟を起こした。バーティは皇太子という立場から直接訴えられる事はなかったものの、1870年2月23日の裁判で証人として出廷することになった。皇太子が離婚訴訟に巻き込まれること自体が異例であり、これはバーティにとって大きな恥辱となり、皇太子としての資質に疑問が呈されるようになった。
 さらに普仏戦争の勃発直前の1870年夏、バーティは「プロイセン封じ込めのため英仏同盟を結ぶべき」との発言で物議を醸し、駐英プロイセン公使・・・から抗議を受け、プロイセン本国にも発言が伝わった。このためノウルズ秘書官がプロイセン公使館を訪れ、ベルンシュトルフ公使に釈明を行った。
 また母ヴィクトリア女王もアルバートの死後、スコットランドのバルモラル城やワイト島のオズボーン・ハウスに籠りきりになって公の場に姿を見せなくなっており、使用人ジョン・ブラウンとの関係も噂されているような状況だったため、王室人気が地に落ちて共和政へ移行することを希望する世論が高まった(1870年から1871年にかけての普仏戦争の結果、フランスが共和政に移行したこともその世論を助長した)。
 グラッドストン首相は外相・・・に宛てた書簡の中で「女王は姿が見えず、皇太子は尊敬されていない」という憂慮を表明している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%897%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E7%8E%8B)
といった有様だったようです。
 とまれ、欧州における君主制諸国の割合の推移
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%9B%E4%B8%BB%E5%88%B6%E5%BB%83%E6%AD%A2
を見ると、19世紀から20世紀にかけて、いかに、急激にその数が減ったのか、改めて我々に考えさせられるものがあります。
 いまや、日本の皇室と英国の皇室・・英国王がインド皇帝でもあった時期には皇室だった・・ならぬ英王室と、一体どちらが早く消滅するか、の競争になっているのではないでしょうか。(太田)

(完)