太田述正コラム#14408(2024.8.19)
<徳富蘇峰『皇道日本の世界化』を読む(その1)>(2024.11.14公開)

1 始めに

 著者の徳富蘇峰については、何度も太田コラムに登場していますが、「蘇峰の思想は日清戦争を境として激しく変化した。初期には平民主義ないし平民的欧化主義を唱え,明治政府による強兵中心の近代化を批判したのに反して,後期には国家膨張主義を鼓吹し,それとの関連で皇室中心主義,国家社会主義,軍国主義を説いた。しかし,〈世界の大勢〉に基づいて日本のあり方を決めようとする考え方という点では,前後一貫している。つまり初期には軍事型社会より産業型社会へ,貴族的社会より平民的社会へという歴史の進化が,世界の大勢と考えられたのに対し,後期には〈人種的な生存競争〉が世界の大勢ととらえられたわけである。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%B3%E5%AF%8C%E8%98%87%E5%B3%B0
という蘇峰評が間違いであることは改めて指摘するまでもないでしょう。
 平民主義ないし平民的欧化主義、と、強兵中心の近代化、は対立概念どころか、同じコインの表裏であり、また、この同じコインの表裏、は、国家膨張主義/皇室中主義/国家社会主義/軍国主義を利用しながら決行されたところの、日蓮主義完遂戦争の最終フェーズ、をもたらすための助走期間の属性だからです。
 この蘇峰が示しているのは、彼の「父一敬(かずたか)は横井小楠の高弟」だったのですから、(恐らくは、)彼は、横井小楠コンセンサス信奉者としてスタートし、「熊本洋学校に入学。教師L.L.ジェーンズの感化によってキリスト教に入信,先輩と花岡山山頂で奉教を誓った(熊本バンド)。さらに同志社に学んだが,新島襄と衝突し,明治13(1880)年退学」とキリスト教はしかに罹ったものの治癒した後、「97年松方内閣の内務省勅任参事官就任・・・後・・・山県有朋,桂太郎に接近し機務にあずかった」(「」内は上掲)と、これまた当然のことながら、横井小楠コンセンサス信奉者は島津斉彬コンセンサス信奉者と親和性があった、ということです。
 なお、本書は「昭和11年12月~13年1月にかけて蘇峰が行った講演などをもとに編纂され」昭和38(1938)年に上梓されたものです。(3、14)

2 『皇道日本の世界化』を読む

 「・・・我が大和民族<は、>・・・本来日本の島に土著(どちやく)している者の外、その多くの一半は大陸から来り、他の一半は太洋から来ったことは、あらゆる点から観察して、間違いあるまい。・・・
 大和民族は・・・本能的に・・・今方に本来の故郷に帰る運動を起しつつある・・・のではないかと思う。・・・
 たまたま雄飛の痕跡を表わしたのは、南北朝の末から、徳川氏の初期にかけての、倭寇の歴史が、よくこれを語っている。
 或いは豊太閤の征韓の如きも、その意味にとられないこともない。
 信長なども実行には遑(いとま)あらなかったが、それを理想としていたには相違ない。
 徳川<時代に於て、>・・・我が国の識者は、既に皇道の世界化を理想としていた。
 水戸の會澤憩齋(あいざわけいさい)(※会沢正志斎)の「新論」の如きは、即ち手短き一の証拠である。
 また文久2年(※1862年)、・・・勝海舟はその日記において、かく記している。
 今朝、桂小五郎、対馬藩大島友之允同道にて来る。朝鮮の議を論ず。我が策は、当今亜細亜洲中、欧羅巴人に抵抗する者なし。これ皆な規模狭小、彼が遠大の策に及ばざるが故なり。今我が邦より船艦を出だし、弘くアジア各国の主に説き、横縦連合、共に海軍を盛大し、有無を通じ、学術を研究せずんば、彼が蹂躙を遁(の)がるべからず。先(まず)、最初隣国朝鮮よりこれを説き、後、支那に及ばんとすと。同人悉く同意。・・・
 これを一読すれば、何やら勝海舟の如きは、約80年前に、既に今日の日本を予想していたのではないかと思われぬことも無い。
 また勝海舟の友人にして、海舟が先生と称している横井小楠は、その二姪(てつ)(※甥)、横井左平太、同じく大平を米国に送るに際し、左の言葉を以てした。
 ・・・堯舜孔子の道を明らかにし、西洋器械の術を尽くす。何ぞ富国に止まらん。何ぞ強兵に止まらん。大義を四海に布かんのみ・・・
 これは慶應2<(1866)>年であって、今から73年前であるが、正しく今日の我が国民的理想を喝破したものといっても、差し支えあるまい。」(17~18)

⇒会沢正志斎は島津斉彬コンセンサスが成立する直前の時点における日蓮主義者、であったのに対し、横井小楠、勝海舟、徳富蘇峰は横井小楠コンセンサス信奉者、であって、前者にとって敵は、欧米>露、後者にとって敵は、露>欧米、また、前者にとって大義は人間主義、後者にとって大義はプロパガンダに過ぎないのでTPOに合致したものをその都度適宜採用する、といった違いがある、と私は見ていますが、もちろん、蘇峰はそのあたりの機微が分かっていなかった筈です。(太田)

(続く)