太田述正コラム#2745(2008.8.22)
<恋と愛について>(2009.2.23公開)
<真井>
 太田述正コラム#2673「性科学の最新状況」
 「愛(love)とは一体何なのでしょうか。愛とは、番う相手探しを、暫定的にせよ打ち切り、番うことそのものに専念させるために起きる感情にほかならない、と考えるべきだとする説が有力です。皆さんは、このような領域に科学のメスがどんどん入っていくことをどうお考えですか。愛とは番う相手探しを打ち切ることなり、なんて言われてしまうとまことに興醒めですが、なるほど、と思われた方も少なくないのでは?」
 このコラムにはびっくりしました。
 生殖が始めにあって、愛は生殖のためにあると、信じ込んでいるのですね。
 生殖と愛と、どちらが先なのか、どうやって決めたのでしょう? 愛が始めにあって、生殖は愛のためにあるのかもしれないではないですか。
 いずれにせよ、仏教では「色即是空、空即是色」といいますから、どちらも空であり色であり「信じていること」に過ぎないので、どちらが真実ということではありません。
 その上で、あなたを幸せにするのは、どちらの信仰でしょうか。生殖が先の方でしょうか。愛が先の方でしょうか。
 太田さんは仏教を持ち上げていらっしゃいますが、仏教の考え方をよくご存知ないのですね。
 私としては、生殖行為なしに生きることはできても、愛が皆無の状態で生きられる人間がいるとは思えないのですが。
 また、太田述正コラム#2703「不貞について」でもそうですが、男女の愛を生殖にばかり結びつけるのも一体どういうわけでしょうね。
 ノンフィクションの怒涛の人生の影響でしょうか(笑)
 愛は社会的なものでしょう。人間の存在を生殖だけに還元するなんて非現実的ですから。
<太田>
1 始めに
 反響が全然なかった二つのコラム(いずれも未公開)にコメントをお寄せいただいたことにまずはもって礼申し上げます。
 しかし、申し訳ありませんが、誤解されておられますね。
 どちらのコラムも、典拠の忠実な紹介に努めたものであり、私自身は、紹介した典拠の内容をendorseしているわけでは必ずしもないからです。
 ただし、私が「ノンフィクションの怒涛の人生」を送って来たこと、その結果、私がこういった分野については、極めてオクテであること、そしてそのことが私のコラムや言動に歪みをもたらしていることはご指摘の通りだと言わざるをえません。
 私は、遅ればせながら昨年春から、恋と愛について、色々考えて来ました。
 上記2コラムも踏まえた、私の現時点での考えを、ごくかいつまんで申し上げておきたいと思います。
2 恋・愛・婚姻
 (1)性愛の重要性
 漫画家の一条ゆかりさんは「<自分の>マンガ家人生を支えるのは欲望」、「人をもっとも成長させるものが恋愛なんです」、「愛情の欠落が人をゆがめる」と指摘されています(
http://www.asahi.com/showbiz/manga/TKY200808190278.html
。8月20日アクセス)。
 つまり、露骨に言い換えさせていただくと、性愛こそ人生で最も大事なことだと言われているわけです。
 また、作家の石田衣良氏は、「<源氏物語以来、>性愛とか恋愛を書くのは、日本の小説の正統派」、「今は格差社会とか、ものすごく上下に引きちぎられている時代ですよね。この厳しい不安な世の中で、序列を一気にひっくり返す力が性愛にはある。誰もがそういう生きる力を持っている」、「どれほど金があっても、愛情やほんとうにいいセックスは買うことができない」と指摘されています(
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080820/acd0808200743003-n1.htm
。8月20日アクセス)。
 石田氏も性愛は極めて重要であり、それを買うことはできないよと言われているわけです。
 (2)恋と愛の峻別
 
 冒頭言及された最初のコラム、及び一条、石田ご両名の言葉の使い方は、いささか雑ぱくだと思います。
 「性愛」的な観念には、「恋」(特定の異性とセックス、すなわち生殖行為をしたいという感情)と「愛」が不分明な形で解け合っているところ、「恋」と「愛」は峻別して論じるべきである、というのが私の考えです。
 このように考えるに至ったのは、エーリッヒ・フロム(Erich Fromm)の『愛するということ(The Art of Loving)』(1956年)という本の存在を知ったことがきっかけです(注)。
 (注)1967年に東大に入学した時、共通の推薦図書としてフロムの『自由からの逃走(Escape from Freedom)』(1941年)等が大学側から示され、フロムのこの本を読んだ記憶があるが、フロムの本で世界的に一番売れたのは『愛するということ』の方
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Art_of_Loving
だとは知らなかった。今にして思えば、大学側は、むしろ後者を推薦図書にすべきだった。「自由」より「愛」の方がより人間存在の根源にかかわるからだ。
 フロムは次のように指摘しています。
 「・・・どの時代のどの社会においても、人間は、いかに孤立を克服するか、いかに合一を達成するかという共通の問題の解決に迫られてきた。いかに個人的な生活を超越して他者との一体化を得るか、という問題である。・・・性的な交わりは、ある程度、孤立感を克服する自然で正常な方法であり、孤独の問題に対する部分的な答である。・・・<ただし、>愛のないセックスは、男と女のあいだに横たわるくらい川に、ほんの束の間しか橋を架けない・・・恋に「落ちる」という最初の体験と、「愛している」あるいはもっとうまく表現すれば、愛のなかに「とどまっている」という持続的な状態とを混同して<はならない。>・・・愛は技術<であって>学ばなければならないことがあるのだと考えている人はほとんどいない。・・・どうすれば人を愛せるようになるかを学びたければ、他の技術、たとえば音楽、医学、工学などの技術を学ぶときと同じ道をたどらなければならない。・・・」(
http://mythology.cocolog-nifty.com/koiosurukoto/2005/09/erich_fromm_b3a5.html
http://mythology.cocolog-nifty.com/koiosurukoto/2005/06/erich_fromm_0d96.html
(どちらも8月10日アクセス)による。)
 この恋と愛を峻別する考え方を、分かりやすく説明しているのが、スコットペック(M.Scott peck)の『愛と心理療法』です。
 「・・・愛<は>自分の限界を広げる・・・。自分の限界とは自我の境界である。愛を通じて自らの限界を広げるのは、愛する人に向かいその成長を願って、いわば手をさしのべることによる。そのためには、対象がまず自分にとって愛すべきものにならねばならない。言い換えれば、自己の境界を越えて 自分の外にある対象に引きつけられ、のめりこみ、関わりあう必要がある。・・・永年にわたって何かを愛し、<このようにして>自分の境界を 拡げてゆくと、徐々にではあるが、たえず自己が拡大し、外の世界が内に取り入れられ、自我境界は薄れると同時に伸長し成長していく。それとともに自己と外界との区別が曖昧になっていく。そして外界と一体になる。こうして自我境界の一部が崩壊すると、「恋におちる」時と同じ種類の恍惚感を経験しはじめる。ただ、一人の恋人と、一時的にしかも非現実的に一体化するかわりに、現実的に、より恒常的に外界と融合するところが異なる。外界全体との「神秘的結合」が築かれる。この結合に伴う恍惚感、あるいは至福の感情は、恋をする時に比べて、ずっと穏やかで、劇的ではないがより安定した持続的なものであり、究極的にはより充実したものである。これが恋愛に典型的な「絶頂経験」と、エイブラハム・マズローのいう「プラト-経験」との違いである。高みが、ちょっと垣間見られて再び消えるのではない。一度到達すれば永久に失われないものである。
 性的行為と愛は、同時に起こるかもしれないが関連のないことも多い、愛の営みそれ自体は愛の行為ではない。オーガスム体験を愛する人と分かちあうことがその恍惚感を高めることがない、というのではない。それは可能である。しかし、愛する人でなくても、あるいは全く相手なしでも、オーガスムによる自我境界の崩壊は全的なものでありうる。一瞬、自分が誰なのか忘れ、我を忘れて時間と空間のなかをさまよい、うっとりしてしまう。外界と融けあうのだが、ほんの一瞬のことである。恋をしたり、性交渉を持ったり、ある種のドラッグを使う事によって自我境界から一時的に解放され、涅槃を垣間見ることはできるかもしれないが、それは涅槃そのものではない。涅槃、あるいは持続的な悟りや本当の成長は、たえず本当の愛を働かせることによってしか得られない。要約すると、恋愛や性交渉に伴う自我境界の一時的喪失が、他の人々との深い関わりへ我々を導いて、そこから本当の愛が始まるかもしれない。また恒久的な恍惚感をかいま見させてもくれる。このような恍惚感が、恋が冷めた後も自分のものとして残る事がある。したがって、恋は愛そのものではないけれども、偉大なかつ神秘的な愛の図式の一部ではある。」(
http://mythology.cocolog-nifty.com/koiosurukoto/2005/09/post_d748.html
。8月10日アクセス)
3 終わりに
 してみると、事実婚を含むところの婚姻関係が持続するかどうかは、男女が互いに相手を愛する努力をどれだけするかにかかっているということになりそうですね。
 ところが、青少年に対して性教育は行われているものの、愛の技術教育は全く行われていません。
 これは、少子化にもつながっているところの、深刻な問題ではないでしょうか。