太田述正コラム#14432(2024.8.31)
<映画評論117:始皇帝 天下統一(後半)(その5)>(2024.11.25公開)

 この番組が、秦王政を、私の言う普通人ではなく、私の言う縄文的弥生人、として描こうとしているのは明らかです。
 政に、BC239年に異母弟の成蟜を誅殺した後、そんな「史実」はないのに、彼に悼ませていますし、また、BC235年に「呂不韋<が、>蟄居後であっても客との交流を止めず、諸国での名声も高かった・・・ため、政は呂不韋が客や諸国と謀って反乱を起こすのではないかと危惧し、・・・呂不韋に詰問状を送<り、>・・・蜀地域への流刑を<言い渡し>たこと<から>、自らの末路に絶望し、鴆酒を仰いで自殺した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%82%E4%B8%8D%E9%9F%8B
ことになっているところ、政は、呂不韋を保護するのが目的だったので、呂が自殺したのに衝撃を受けたということにしていますし、更に、「秦で、属国でありながら面従腹背常ならぬ韓を郡県化すべしという議論が李斯の上奏によって起こり、韓非はその弁明のために韓から派遣された<ところ、>以前に韓非の文章(おそらく「五蠹」編と「孤憤」編)を読んで敬服するところのあった秦王はこのとき、韓非を登用しようと考えたが、李斯は韓非の才能が自分の地位を脅かすことを恐れて王に讒言した。このため<、BC233年>、韓非は牢につながれ、獄中、李斯が毒薬を届けて自殺を促し、韓非はこれに従ったという・・・<の>が『史記』の伝える韓非の最期だが、これには異聞もあ<って、>『戦国策』「秦策」では、韓非が姚賈という秦の重臣への讒言をしたために誅殺されたと伝わる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E9%9D%9E
とされるところ、番組では、韓の公子であった韓非が、在秦中、韓のためにスパイ行為を行ったことを政が咎めたものとし、しかも、李斯は、共に荀子の弟子仲間であった韓非が八つ裂刑に処せられるより毒で自死し方が本人のためになると思って服毒を勧めつつ、自分も同じ毒を仰ぐが李斯だけは生き残ってしまう、しかもしかも、政は考えを変えて韓非の釈放を決めるもののその王命が到着する前に韓非は亡くなってしまう、という筋にすることで、政のみならず、李斯もまた、縄文的弥生人であったかのように描いているのですからね。
 私は、『史記』も『戦国策』(注2)も秦を打倒した前漢の時代の歴史書である以上、秦、とりわけ、政(始皇帝)、を悪逆非道に描かざるをえなかったことから、秦に係る記述については、必ずしも信頼できないと考えており、末期の秦が、楚、就中その弥生的縄文性、の強い影響を受けていたとの拙説も踏まえ、この番組の秦王政観は大いに理解できると思っている次第です。

 (注2)著作者は劉向(りゅうきょう。BC79~BC8年)。「劉邦の末弟である楚元王劉交の玄孫。・・・春秋戦国時代は、孔子の『春秋』と劉向の『戦国策』にちなむ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E5%90%91

 (ちなみに、李斯も楚出身です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%96%AF )

 さて、このあたりのハイライトは、秦に次ぐ大国であった趙の秦による滅亡であり、下掲の「史実」を踏まえ、大枠は、あくまで概ねですが、この「史実」に従って番組は進行します。↓

 「紀元前229年、秦王政(後の始皇帝)は天下統一のため、趙に対して王翦を将とした軍を送った。趙の幽繆王は当時の趙の名将であった李牧と司馬尚(司馬卬の父)に防衛させた。秦軍は李牧のために何度も敗れており、今回も李牧の善戦のために苦しんだ。秦は李牧と司馬尚を排除するため、郭開に大金を送って幽繆王との離間を依頼した。郭開は王に「李牧らは謀反を企んでいる」と讒言する。王も実は先代から功名の高い李牧を恐れていたため、この讒言を真に受けて李牧らを更迭しようとした。しかし、李牧は王命に応じず、司馬尚は身の危険を感じて逃亡して、解任された。王は李牧を捕らえて、これを処刑して葬り去った。
 翌年、趙は秦に邯鄲を攻められて滅亡し、幽繆王は捕らえられた。郭開の末路は史書に記載がなく不明である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%AD%E9%96%8B

(続く)