太田述正コラム#14434(2024.9.1)
<映画評論117:始皇帝 天下統一(後半)(その6)>(2024.11.26公開)

 なんと言っても、この後半のシリーズのハイライトは楚の滅亡でしょう。
 典拠は煩雑になるので省略しますが、下掲の系図をご覧あれ。↓

             華陽夫人(楚の公女)

          ||
宣太后(楚の公女)||
  ||    —孝文王—荘襄王-秦王政
  || |
  ||-昭襄王—-〇-
||     ||
 恵文王 ||——-昌平君(羋啓)(華陽夫人養育。秦右丞相。最後の楚王)
||
考烈王(楚)(秦の人質を経験)
         ||——-幽王(哀王の前王)
         ||——-哀王(負芻の前王。幽王の同母弟))
         ||——-負芻(ふすう)(昌平君の前王)  

 昌平君は、「秦王政21年(紀元前226年)、楚攻略に必要な兵数をめぐっての議論で王翦が将軍を罷免された際に、秦王政を諌めたため怒りを買って昌平君も丞相を罷免された。
 また、秦は秦王政17年(紀元前230年)に滅ぼした韓の旧都新鄭(現在の河南省鄭州市新鄭市)で韓の旧臣による反乱が起きたため、鎮圧すると韓王安を処刑してこれを完全に滅ぼした。
 このために楚の旧都郢陳(現在の河南省周口市淮陽区)の民が動揺したため、楚の公子でもある昌平君が当地へ送られ、楚の民を安撫するように命じられた。
 秦王政22年(紀元前225年)、李信と蒙恬率いる20万の秦軍が楚の首都郢(寿春、現在の安徽省淮南市寿県)へ向け侵攻。秦軍が寿春に迫ったとき昌平君がいる郢陳で反乱が起き、李信の軍がこれを討ちに向かったところを楚の将軍項燕の奇襲により秦軍は壊滅的打撃を受けた。
 秦王政23年(紀元前224年)、異母兄弟の楚王負芻が秦に捕らえられ楚が滅亡すると、項燕により淮南で楚王に立てられ秦に背いたが、翌年、王翦・蒙武に敗れて戦死した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8C%E5%B9%B3%E5%90%9B 前掲
という運命を辿ります。

 ここで、二つのイフを設定してみましょう。
 一つ目は、華陽夫人に実子がいて、その実子が秦王になっていた場合です。
 この場合、恐らく、天下統一を果たした秦があんな形ですぐ倒れることなく、楚の後継政権と言える漢が、あれほど、緩治と軍事軽視に陥ってしまうことはなく、従って、支那は超長期の停滞を免れることができた可能性があります。
 二つ目のイフは、(秦化していた)昌平君が、諫言などせず、秦の右丞相を続けていた場合です。
 その場合、左丞相も叔父の(同じく秦化していた)昌文君
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8C%E6%96%87%E5%90%9B 前掲
だったのですから、彼らは年齢的に無理でも彼らの子供達が、始皇帝が死亡した時においても引き続き秦の2丞相ないし単一の丞相を務めていた可能性が高く、その彼らが楚の旧民達を扇動して反乱を起こして天下統一後の秦を打倒し、楚を復活させておれば、一つ目と同じ理由で、支那が超長期の停滞を免れることができた可能性があるのではないでしょうか。

(続く)