太田述正コラム#14444(2024.9.7)
<映画評論123:最後の忠臣蔵(その2)>(2024.12.2公開)
しかし、「司馬遼太郎を深く尊敬しており、<講>演にて「日本の小説は私小説が主体であったが、司馬遼太郎の歴史小説は大河的であり、日本の小説の流れを変えた作家であった」との内容を述べている。」(前掲)のは、仮に司馬の史料使用の恣意性が知られるようになる前の池宮の言だとしても、「大河的」という評価は、私に言わせれば、「私小説的」のミンチ出たとこ勝負史観に対してぶつ切り出たとこ勝負史観を司馬は採ったに過ぎないのであって、司馬が日本の歴史学と歴史小説とを同期させた、と、仮に言えたとしても、かかる日本の歴史学そのものを私が全く評価していないことはご承知の通りであり、池宮も余計なことを言ったものだと思います。
また、「幕府の権勢を維持しようとする米沢藩江戸家老・色部又四郎」(上掲)に関しては、そもそも、上杉氏は、景勝の時に120万石から米沢の30万石まで減移封された上、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%99%AF%E5%8B%9D
その孫の綱勝が、「嗣子なく、世嗣も指名しないまま<1664年に>急死する。享年26。本来ならば上杉氏は無嗣子断絶となるところであったが、綱勝の岳父に当たる保科正之の仲介などもあって、綱勝の妹・富子が嫁いでいた高家・吉良義央(清和源氏の名門であり、扇谷上杉家・八条上杉家の女系子孫でもある)の長男・三之助が末期養子として綱勝の跡を継ぐことで家名存続を許された。またこの時、上杉家は米沢藩の領域のうち信夫郡と置賜郡の一部を収公され、石高は30万石から15万石に減少されたにもかかわらず、保科正之による要請により藩士の召し放ちが不徹底になったため、財政難に拍車がかかることとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E7%B6%B1%E5%8B%9D
という背景(注2)から、米沢藩やその重臣に「幕府の権勢を維持しようとする」思いがあったなどとは思いにくい以上、池宮の赤穂浪士討ち入り事件に係る対立軸の描き方には無理があると言わざるをえません。
(注2)「末期養子・・・禁止<の>・・・最も重要な理由として、幕府が大名の力を削ぎ統制を強めることに大いに意を用いていたことが挙げられる。末期養子の禁止もその手段の一つとして活用されたのである。・・・<しかし、>それらの大名家に仕えていた武士たち(陪臣、陪々臣など)は浪人となる他なく、社会不安も増すことになった。・・・
このような事情と、幕府の支配体制が一応の完成を見たことから、慶安4<(1651)>年12月11日に保科正之の主導により、幕府は末期養子の禁を解いた。とはいえ、末期養子の認可のためには、幕府から派遣された役人が直接当主の生存と養子縁組の意思を確かめる判元見届という手続きが必要であり(ただし、後に当主生存の確認は儀式化する)、無制限に認められたわけではなかった。また、末期養子を取る当主の年齢は17歳以上50歳未満とされており、範囲外の年齢の当主には末期養子は認められていなかった。・・・<いずれにせよ、>当初は米沢藩の上杉綱憲の相続のように、全ての所領を相続できず減知されるといった代償が存在した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E6%9C%9F%E9%A4%8A%E5%AD%90
その上でですが、浅野内匠頭刃傷事件に係る対立軸・・私見では赤穂浪士討ち入り事件に係る対立軸でもあります・・を池宮が模索していたことは窺えます。↓
「『四十七人の刺客』<の中で、>・・・色部が吉良に<刃傷の>理由を尋ねるが、吉良は答えない。また、吉良が大石に、浅野の刃傷の本当の理由を知りたくはないか、と助命を請うシーンがあるが、大石は「知りとうない」と言って吉良を討ってしまう。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%8D%81%E4%B8%83%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%88%BA%E5%AE%A2#%E6%98%A0%E7%94%BB 前掲
ここまで、問題意識を抱いていた池宮が、どうして山鹿素行原因説に辿り着かなかったのか、が、私には解せません。
彼が『四十七人の刺客』を上梓したのは1992年で69歳の時ですから、素行に注目さえしておれば、素行の死と刃傷事件との間の16年半
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%B9%BF%E7%B4%A0%E8%A1%8C
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A9%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6
があっという間のこと的なことは(私同様)分かっていた筈ですから、辿り着くのは容易であったと思われるにもかかわらず・・。
ところが、彼は、時代を遡るどころか、下って、奇しくも、(刃傷事件ではなく討ち入り事件の方ですが、)ほぼ同じ16年の後に時間を設定した『最後の忠臣蔵』を1994年に上梓し、しかも、1996年には『その日の吉良上野介』まで上梓し、私に言わせれば、赤穂事件に憑りつかれたまま、素行に「目を背け」、素行から「逃走」し続けたまま、その11年後に他界してしまうのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E5%AE%AE%E5%BD%B0%E4%B8%80%E9%83%8E 前掲 ←事実関係
蛇足ながら、漫画家だけではなく、歴史小説家が太田史観に基いたり同史観にヒントを得た歴史小説を将来書いてくれることにも期待しておきたいですね。
(完)