太田述正コラム#14450(2024.9.9)
<映画評論126:引っ越し大名!>(2024.12.4公開)
昨日は、余り期待せずに表記を鑑賞したのですが、「2019年公開の日本映画。生涯に7回もの国替えをさせられ、“引っ越し大名”とあだ名された実在の大名・松平直矩をモチーフにした土橋章宏原作の小説『引っ越し大名三千里』の映画化で、土橋が脚本も担当した。監督は犬童一心、主演は星野源。松平直矩は越前国大野藩主の松平直基の子として生まれ、父が姫路への国替えの途上で死去したため、幼少の身で姫路藩主となるが、翌年越後国村上藩に国替えとなる。成人後に再び姫路藩主となるが、その後、豊後国日田藩、出羽国山形藩、陸奥国白河藩と、幕府から何度も国替えを命じられた。・・・
<そのうちの、>豊後国日田藩への国替えを<取り上げたもの。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%95%E3%81%A3%E8%B6%8A%E3%81%97%E5%A4%A7%E5%90%8D!
は、なかなかの出来のコメディー映画であり、見終わって、温かい気持ちになりました。
ところで、この松平直矩(なおのり。1642~1695年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E7%9B%B4%E7%9F%A9
ですが、そのご先祖様が面白い。
父松平直基(1604~1648年)は、「結城秀康の五男として北庄城で誕生。母は三好長虎(越前守)の娘・・・。誕生時より、越前国片粕で、養祖父・結城晴朝に養育される。・・・慶長12年(1607年)に結城家の家督を相続した。慶長19年(1614年)7月20日、晴朝が死去したため、その隠居料である5千石を相続する。元和元年(1615年)、越前国勝山で1万石を与えられる。同5年(1619年)、従五位下大和守となる。
寛永元年(1624年)6月8日、越前国勝山藩3万石となる。直基により、同年、菩提寺として品量山大蓮寺(日蓮宗)が建立された。同2年(1625年)には浄光院法栄寺(浄土宗)が建立された。
寛永3年(1626年)8月19日、従四位下(大和守)となり、結城を改めて松平を名乗る。これは親藩・譜代としての扱い(結城氏の場合は外様扱いとなる)を受けるべくの対応で、名字こそ松平になったものの、家紋は結城家の結城巴、太閤桐から変えず、結城家の祭祀を継承した。兄・忠直より偏諱を受け、直基を名乗る。
寛永12年(1635年)11月22日、越前国大野城5万石に加増・移封された(大野藩)。
正保元年(1644年)1月11日、山形城15万石(一説に10万石)に移る(山形藩)。・・・
慶安元年(1648年)6月14日、姫路城に移る(姫路藩)。
同年8月15日、江戸で死去した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E7%9B%B4%E5%9F%BA
という人物ですが、菩提寺として日蓮宗寺院を建立する一方で、幕府への配慮か、浄土宗の寺院も建立しているところ、結城氏は、曹洞宗
https://kotobank.jp/word/%E5%AD%9D%E9%A1%95%E5%AF%BA
なので、直基の三好氏出身の母親・・三好三人衆筆頭の三好長虎の子・・の三好氏の統率者たる三好長慶の日蓮宗庇護方針
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%95%B7%E6%85%B6
を踏まえて、長虎、や、直基の母親、が、日蓮宗信徒であった可能性が高そうです。
要するに、直基や直基の子の直矩には、松平(徳川)氏、結城氏、三好氏、の三つのアイデンティティがあったと言えそうなのです。
ところで、直矩が「引っ越し大名」と呼ばれるようになったいきさつは、次の通りです。
「父・直基は出羽国山形藩、さらに播磨国姫路藩に国替を命じられるが、姫路の封地に赴く途上で死去し、慶安元年(1648年)8月17日にわずか5歳で家督を相続した。
ところが、姫路は江戸幕府にとって西国の抑えとなる要地であったため、幼少の直矩には不適当と判断され、翌慶安2年(1649年)6月9日に越後国村上藩に国替となる。成人後の寛文7年(1667年)8月19日、転封により姫路に復帰した。
親族の越後高田藩(藩主松平光長とは従兄弟の関係)の御家騒動(越後騒動)に際し、出雲国広瀬藩主・松平近栄と共に一族を代表して騒動の調整を行うが、両名共に不手際を幕府に指摘され、領地を半分以下の7万石に減らされたうえ閉門。天和2年(1682年)2月7日には豊後国日田藩に国替を命じられた。
4年後の貞享3年(1686年)7月、3万石加増の上で出羽山形藩、さらに6年後の元禄5年(1692年)7月27日には5万石加増の上で陸奥国白河藩へ移され、格式の上では従前の15万石に復帰した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E7%9B%B4%E7%9F%A9 前掲
この結城松平氏は、最終的には川越藩主家としてようやく「安定」し、幕末維新を迎えています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%85%B8%E5%89%87
幕末維新当時の藩主は久留米藩の有馬家からの婿養子の松平直克(1840~1897年)でしたが、「文久3年(1863年)10月11日、前任の<結城松平氏の本来の本家筋たる>松平春嶽の辞職以降空席となっていた政事総裁職に就任、親藩大名ながら幕政に参画する。文久4年(1864年)1月には、14代将軍・徳川家茂と共に上京し、朝廷および参預会議との折衝にあたった・・・後は孝明天皇の意向に沿い、禁裏御守衛総督の一橋慶喜と共に横浜港の鎖港を推進、同港鎖港を名目に挙兵した天狗党の乱の鎮圧にも反対したことから、他の幕閣と激しく対立した。元治元年(1864年)6月、・・・直克は政事総裁職を罷免され、以後は幕政から退<き、>・・・慶応4年(1868年)3月、新政府に帰順して上野全土の鎮撫を務め、続いて会津藩と戦った」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E7%9B%B4%E5%85%8B
人物であり、それなりに幕末維新史に鮮烈な足跡を残しています。
ところで、映画の中に御手杵(おてぎね)が登場しますが、これは、「「天下三槍」と呼ばれた名槍の1つ<で、>室町時代に下総国結城の大名・結城晴朝が作らせ、その養嗣子・結城秀康(実父・徳川家康)に伝わり、秀康の五男で結城氏の名跡を継いだ直基の子孫、松平大和守家(前橋・川越松平家)が受け継いだ<ところの、>駿河国嶋田の刀工、五条義助が鍛えた大身槍」です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%89%8B%E6%9D%B5