太田述正コラム#14494(2024.10.1)
<中田力『日本古代史を科学する』を読む(その2)>(2024.12.26公開)
「・・・「魏志倭人伝」に現れる距離の単位が周王朝で使われていた里の概念であることを最初に主張したのは、古田武彦<(注3)(コラム#9518、9520)>氏であった。・・・
(注3)1926~2015年。東北大卒、昭和薬科大教授等。「『魏志倭人伝』のみならず魏晋朝では1里75m~90mの短里が公式に用いられたとする。・・・『魏志倭人伝』にある国の名を邪馬台国とせず、現在伝わる「魏志倭人伝」の原文通りに「邪馬壹国」の表記が正しいとする。所在地を博多湾岸とする。・・・金印を賜った倭奴国から一貫して、倭国は、九州王朝であるとする。白村江の戦いによって急激に衰退し、分家である近畿皇室(日本国)に吸収されたとみる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E7%94%B0%E6%AD%A6%E5%BD%A6
この里は一里が75~90メートルに相当するものであるとし、「魏晋(西晋)朝短里」と名づけた。<(注4)>・・・
(注4)一般に、支那では、里≒400m、だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8C
その議論に自然科学的結論を与えたのが谷本茂<(注5)>氏であった。・・・
(注5)京大工学部卒、古代史研究家
https://furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku14/atogaki.html
https://kazuo.r-cms.jp/blog_detail/id=134
谷本氏は・・・適切な計算から「短里」の存在を証明してみせたのである。
魏王朝が、始皇帝の命で変革され漢王朝に受け継がれていた「長里」の概念を古典の「短里」に戻すと言う作業を行ったとしても、充分納得がゆく。・・・
⇒どう「十分納得が」いったのか、さっぱり分かりません。
仮に「長里」を「短里」に戻したのが本当だったとして、それ以外で漢より前の制度等に戻した事例などなさそうなだけに・・。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F_(%E4%B8%89%E5%9B%BD)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E4%B8%95
また、「韓地や倭地については、魏(・西晋)朝で「一里=75mないし90mで、75mに近い」長さの「短里」が使用されていたという説があ<る>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%94%AF%E5%9B%BD
の典拠が示されていないところ、その真偽はともかくとして、中田は、「短里」が、「魏志倭人伝」以外に『三国志』で使われているかどうかはもとより、それ以外の魏ないし西晋の公文書で使われているかどうか、を調べるべきでした。
恐らく調べたのでしょうが、「里」が使われている事例はなかったと思われるところ、中田が何も語ろうとしないことからして、どうして、(「韓地」と?)「倭地」の記述においてのみ「短里」が使われたのかを彼が説明できなかったからだ、と、私は考えざるをえないのですが・・。(太田)
当時の中国では土地の広さの記載を同じ大きさの正方形に換算し、その一片の長さを用いることで表すという技法が使われていた。
「魏氏倭人伝」では、対馬<(對馬)>と壱岐<(一大(注6))>の大きさをその方法で記載している。
(注6)「『魏志倭人伝』では「一大國」とされるが、他の史書(魏略逸文、梁書や隋書・北史など)では「一支國」とされ、対馬国から末廬国の道程に存在することから、『魏志倭人伝』は誤記ではないかとされている。一方誤記ではないとする説もある。」(上掲)
それぞれ、
方四百里ばかり
方三百里ばかり
である。
かなり正方形に近い壱岐がすっぽり入る正方形の一辺は16~18キロメートル程度であるから、方三百里の記載から計算すると一里は、53~60メートル程度ということになる。
長方形の対馬を正方形に直して考えると、27~29キロメートル程度になるから、ここから計算した一里は四百余里の「余」を15%と見積もって四百六十里と考え、58~63メートルとなる。
古田氏が現在採用している75メートルという規準値よりは、もう少し短いようである。
本書では、「魏志倭人伝」の一里を60メートルとして議論を進めることとする。」(43、45~47)
⇒このくだりは、それなりに説得力がありますが、「短里」を認めない側の反論はないのでしょうか。(太田)
(続く)