太田述正コラム#14496(2024.10.2)
<中田力『日本古代史を科学する』を読む(その3)>(2024.12.27公開)
「・・・「魏志倭人伝」の奴国と<金印で有名な>博多の奴国が同じであったという保証は全くない。・・・
「魏志倭人伝」にある「倭国乱れ、相攻伐すること暦年」、すなわち「年を歴(へ)ているあいだに」奴国が宗主国の座を追われたとすることは理解できる。
それでも、当時の金印は三種の神器のような存在である。
「魏志倭人伝」の奴国は「二万戸」の集落で、邪馬台国の「七万余戸」の三分の一以下である。
金印を隠し、または持ったまま女王国に従い、もともとの集落の規模をどっと落としてまで生き残ったとは考えにくいのである。
むしろ、博多の奴国と「魏志倭人伝」の奴国が違う国家と下方がすっきりする。<(注7)>・・・
(注7)「三国志の成立は3世紀末<であり>、5世紀に成立した後漢書にはるかに先行する」わけだが、「『後漢書』東夷伝に記されている倭奴国と「魏志倭人伝」に記されている奴国が同一の国かどうかは確定していない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E5%9B%BD
邪馬台国が宮崎平野、日向灘の地にあったことはまず間違いない。・・・
大和朝廷が最後まで戦っていた相手が熊襲の集団であり、その本拠地が南九州であったことは定説となっている。
邪馬台国が宮崎平野に位置していたということは、狗奴国が熊襲の前身であったことを強く示唆している。・・・
⇒中田の、邪馬台国・宮崎平野所在説、の「立証」過程は記述を転記せず省略しましたが、省略した理由は、その結論であるところの、邪馬台国「宮崎平野に位置していた<、>ということ」、など、およそありえないからです。
「弥生時代の日向(宮崎県)<ですが、>・・・環濠集落は発見されている<ものの>、<北九州(太田)や>瀬戸内や近畿に比べ、少ない<のです>。・・・<そもそも、>宮崎は火山灰が多く水はけの良い土地が多くあり、・・・弥生時代も「水田」は多くなかったようです。・・・<そして、>瀬戸内や近畿<と>人的交流はあった<ものの、>・・・弥生時代の宮崎県では青銅器祭祀を受け入れていなかったようです」
https://note.com/jolly_dietes942/n/n19487a76f7e6
からね。
当時、宮崎平野は後進地域だったわけです。
仮に邪馬台国が宮崎平野にあったとすると、そんなところにあった「邪馬台国<が>卑弥呼を中心に・・・30個程の国<からなる>・・・連合国家」を形成<していた>」
https://tomobanashi.jp/himiko-amaterasuoomikami/
といったことができるとは考えにくいと言わざるをえないのです。(太田)
「記紀」にある天照大神<は>卑弥呼に比定できる可能性が極めて高い。<(注8)>」(54、77、81)
(注8)「女性リーダーであり巫女的な役割を持ち合わせたこと、弟がいたといった2人の境遇に共通点があることが、同一人物と考える理由となっているようです。」(上掲)
また、「天文学上の計算によれば、卑弥呼が死ぬ前の年の247年と、死んだとされる248年には日食が起きていたという説があるのです。・・・
「卑弥呼が死んだら日食が起きた」という歴史的な出来事を、古事記では「天照大神が岩戸に姿を隠したので世の中が闇に包まれた」と脚色したのではないかというわけです。」
https://rekisuta.com/ancientry/himiko/japanese-goddess-of-the-sun/
⇒この箇所については判断を保留しておきます。(太田)
(続く)