太田述正コラム#14498(2024.10.3)
<中田力『日本古代史を科学する』を読む(その4)>(2024.12.28公開)
「・・・邪馬台国が「宮崎平野にあったことと併せて考えれば、「記紀」に書かれた高天原の神話は、邪馬台国を中心として始まった大和朝廷成立までの初期の歴史をデフォルメしたものとも考えられる。・・・
<「記紀」によれば、>高天原は天照大神に、黄泉の国は素戔嗚尊に受け継がれる<(注9)>ことになる。
⇒「『記紀』神話においては出雲の神の祖神として書かれているスサノオで<す>が、」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B5%E3%83%8E%E3%82%AA
「黄泉国とは出雲地方のことである<かどうかは>説が<分かれている>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B3%89
以上、中田は、断定的に記すべきではありませんでした。(太田)
・・・<これは、>高天原と黄泉の国とが現存した二大勢力であったことを意味する。
黄泉の国が出雲に比定されているように、高天原を卑弥呼の邪馬台国に比定すれば、天照大神と素戔嗚尊との競い合いの神話は、まさに、大和朝廷と出雲との間に起こった歴史そのものを記載したものともいえる。・・・」(92~94)
⇒上述したように、高天原が邪馬台国に比定されている、とは言い難いわけです。
なお、この点は措くとしても、「大和朝廷と出雲との間に起こった歴史」は、天孫降臨以降の話であるところ、タイムトラベルでもしない限り、それを天孫降臨より前の話にはできない筈です。
さて、私は、「天孫族の邇邇芸命(ににぎのみこと)が、葦原の中津国を治めるために、高天原から・・・日向の襲の高千穂峰へ天降(あまくだ)った・・・<、いわゆる、>天孫降臨」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%AD%AB%E9%99%8D%E8%87%A8
は、
「谷有ニは伝説の地をクシフルに音の似た九重連峰や久住山とする説等を紹介している。谷自身は、高千穂を「高い山」の意とし、添(ソホリ)がソウルと同じ王の都であるなど韓国との関連を示す記載と前述の瓊々杵尊の言葉から、本来は九州北部が伝説の地であったが、政策上の都合で九州南部に移動したとしている。また、谷はソホリに「大きい」の意のクがついたものがクシフルである可能性とカシハラとの類似性も指摘している。 日本書紀に「日向の襲の高千穂の峯に天降ります」とあるが、この「襲」については、同じく日本書紀の景行天皇13年5月条に、「襲国平定」と記されてある。「襲国(曽国)」とは古代の南九州に居住した熊襲 (球磨贈於) といわれ、後に隼人と呼ばれた人々の本拠地とされる。
古田武彦は福岡県の日向峠(笠沙岬の真北)を天孫降臨の伝説の発祥地とする。
なお、その他にもクシフルの比定地は多くある。クシフルと同様、ソウルが変化したとされる脊振山(セフリサン)は、福岡県と佐賀県の境にあって、韓国(カラクニ)、朝鮮半島南部が対馬の向こうに見える山である。
沢田洋太郎は天孫降臨はヤマト王権の朝鮮から北九州への上陸を意味するとしている。
朝鮮の建国神話、『三国遺事』にある加耶の始祖首露王が亀旨(クジ)峰に天降る話と似ていることが、神話学者の三品彰英によって指摘されている。」(上掲)
といった諸説が示唆しているように、天孫降臨は、朝鮮半島から渡来した人々によって日本が作られた史実、を神話化したものであると考えており、より踏み込んで言えば、弥生人が稲作文化を引っ提げて支那の江南地方から朝鮮半島南部を経由して日本列島に渡来し、比較的平和裏に列島原住民たる縄文人に君臨・混淆した史実、を神話化したものである、と見ている次第です。(太田)
(続く)