太田述正コラム#14500(2024.10.4)
<中田力『日本古代史を科学する』を読む(その5)>(2024.12.29公開)
「・・・教養を備えた貴族が未開の地に渡る理由はただひとつ、国の滅亡による自国の民との逃避である。
時代が進んだ後に登場した邪馬台国が二次的に派生した可能性があったとしても、奴国の誕生には、そのような歴史がなければならないのである。
そして、この検証にみごとに対応する国家が存在する。
越の句践に滅ぼされた国、姫姓の呉である。・・・
日本の水田で作られているイネ、温帯ジャポニカの遺伝子解析<によれば、>温帯ジャポニカは長江の中流の彭頭山付近、現在の湖南省北西部に生まれ、長江河口、現在の上海付近のΔ地帯に広まったとされている。
そして、この地方で栽培されているイネの60%近くにはRM1-bと呼ばれる遺伝子が存在するのだが、日本で栽培されているイネ、特に、九州から本州南部にかけて栽培されているイネの多くもこの遺伝子を持つ。
ところが、韓半島で栽培されているイネにはこの遺伝子が見つからないのである・・・。
佐藤洋一郎氏によって明らかにされた、このRM1-b遺伝子を持つ温帯ジャポニカの分布は、日本に弥生時代をもたらした水田稲作が、漢半島を経由せず、直接、長江河口付近から伝わった技術であることを証明している。
弥生と呼ばれる時代は、温帯ジャポニカを持った弥生人の渡来によりもたらされた。
そして、その人々は、中国北部から韓半島と言う北周りのルートではなく、上海地方から直接海を渡って日本の九州に到達した人々なのである。
日本の弥生時代の幕開けと連動するように、当時、上海付近の土地を支配していた国家が滅亡している。
姫姓の呉である。
紀元前473年であったとされる。」(108~109、116~117)
⇒中田のこの本が上梓されたのは2010年ですが、2020年の時点で次のような文章がネットにアップされています。↓
「長江流域から船を出して、西風に恵まれれば容易に九州に達するというが、当時にあっても帆走は大変困難であったし、大勢を乗せて東シナ海を横切って直接渡来できる船は存在しませんでした。彼らの船は平底です。
第一、後述する通り、日本列島での稲作開始はそれよりも相当遡ることが明確になっていて<(注10)>、今や・・・紀元前500年頃から紀元前330年にかけて「呉越の争い」が起こ<り、>呉と越は互いに勢力を伸ばして覇を争ったが、越は紀元前468年に呉を倒す・・・、紀元前334年に越は楚に滅ぼされ、・・・この<間、>四散した・・・<うちの>一部の<呉人や>越人が大勢日本に渡来して稲作が伝来、弥生時代の始まりに関わったという・・・説は破綻しています。
(注10)「日本<では、>従来、紀元前5~4世紀頃に水田稲作から始まったとされていたが、現在は、縄文時代後晩期(約3000–4000年前)には水田稲作が行われていた可能性が高いと考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E4%BD%9C
稲作伝来に関して可能性が高いと思われるのは、呉や越の稲作民が、優れた稲作技術を携えてシナ大陸の沿岸を北上、山東半島付近へ進出したというものです。山東半島の沿岸は古代稲作民の領域の北端だったらしい……。
池橋宏<(注11)>氏らが仮説として提唱しています。
(注11)1959年京大農卒、農学博士。千葉大教授、京大教授、日大教授を歴任。
https://researchmap.jp/read0042685
https://nrid.nii.ac.jp/ja/nrid/1000050193222/
彼らは、東シナ海に面した幾つもの河口付近に小さな拠点を作りながら、長い時間をかけて徐々に北上し、山東半島付近に達したようです。その後、朝鮮半島南西部を経由して日本列島に達したわけです。もちろん徐々に少しずつ。
漁労と強く結びついていた越人が舟の使い手であったことが、大陸沿岸を伝って稲作技術が北上することを可能にしました。長江下流域から山東半島の沿岸には風待ちのできる入り江が点々と続いています。・・・日本海側の潟湖のようなものです。入江の近辺は、小規模な水田稲作も可能なので、生活拠点があったと考えられます。
紀元前11~10世紀には朝鮮半島南部で水田稲作が始まっています。しかし、半島南部で根づいた証拠がなく、半島南部はほとんど素通りするようにして、九州北部に伝わったと想定されます。言い換えれば、江南の水田稲作技術が、地理的には朝鮮半島を経由して九州へ渡来したということですね。
水田稲作の伝来については、従来から、一、東シナ海経由の直接渡来説、二、南西諸島の島伝い経由説、三、朝鮮半島経由説がありますが、今では3番目の説が確定的となっています。
この説で真っ先に頭に浮かぶのは、山東半島北岸から遼東半島先端部までのルートです。150キロくらいしかないので距離的には最短で、しかも点在する廟島(びょうとう)群島を伝って遼東半島先端まで行けるので渡海は容易です。ただ気候の寒い朝鮮半島北部を経由することになり、水田稲作の伝播経路として考えにくいですね。
華北から渤海北岸をぐるりと回りこんで半島北部を経由、半島南部に伝わったと考えることは気候の面からさらに無理で、残る経路としては山東半島から黄海を渡って朝鮮半島西岸に到り、半島南部に伝わったと考えざるを得ません。
問題は山東半島先端部から朝鮮半島西部までは300キロ以上もあるので、池橋氏も、この間の航海をどのようにしたのか、検討課題としています。でも、・・・黒潮の流れる海でも200キロ程度であれば、丸木舟で渡ることは決して不可能ではなかったことからも、黄海横断ルートに可能性がないとは言えないと思います。
東シナ海を横断する直接渡来は航海術の面から見て無理、南西諸島経由も考古学的証拠に乏しいことから、黄海をどのように越えたのか不明であっても、たとえ朝鮮半島で稲作が根づいた証拠が見つからなくても、朝鮮半島経由しか考えられないのです。」
https://www.shigesai.net/entry/2020/10/06/000000
よって、中田等の呉/越人四散日本渡来説は既に過去のものになっている、と言っていいでしょう。(太田)
(続く)