太田述正コラム#14502(2024.10.5)
<中田力『日本古代史を科学する』を読む(その6)>(2024.12.30公開)

 「・・・残るは出雲である<(注12)>。・・・」(125)

 (注12)「北陸や関東などに出雲神話の影響がみられる。古事記上巻の記述の3分の1は出雲に関するものであり、全国の多くの神社に出雲系の神が祀られている。
 出雲弁を含む雲伯方言は、「し」と「す」、「ち」と「つ」(および「じ」と「ず」、「ぢ」と「づ」)の区別がないという点で東北方言に類似している(ズーズー弁)。ズーズー弁が飛び地状に分布する理由として、古代出雲の住民が東北地方に移住したとする説や、かつて日本海側で広く話されていた基層言語の影響とする説がある。また、古代出雲の言語はツングース諸語から生じた言語であるとする説もある。・・・
 とはいえ、古代出雲の実態は、主として20世紀以降に発見された多数の遺跡の考古学的調査などを経ても、いまだにはっきりとはわかっていない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%87%BA%E9%9B%B2

⇒古代出雲については、「注12」の通りであり、「いまだにはっきりとはわかっていない」わけですが、日本に渡来した弥生人の日本列島内の移住の動きについては、水田稲作の伝播経路によって推測ができるところ、水田稲作は、BC10世紀後半に朝鮮半島南部から九州北部に伝播し、爾後も海上を海岸線に沿って日本列島各地に伝播して行き、瀬戸内経路では四国にBC8世紀末、近畿にはBC7~6世紀、出雲にはBC7世紀、に伝播しています。」(典拠:『弥生時代の歴史』 藤尾慎一郎(注13) 講談社現代新書)
https://www.nukumori1.com/spread_paddy_rice_cultivation/

 (注13) 藤尾慎一郎(1959年~)。広島大文(史学科考古学専攻)卒、九大博士課程単位取得退学、同大助手、歴史民俗博物館助手、助教授、教授、この間、博士(文学。広島大)及び総合研究代助教授、准教授、教授(いずれも併任)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%B0%BE%E6%85%8E%E4%B8%80%E9%83%8E

 当時の日本列島では、現在より海岸線は山側に近く、従って、山陰や瀬戸内/近畿の水田好適地は現在よりも狭かったでしょうが、それでも、前者より後者の方がはるかに広く、近畿だけでも同じことが言えたと想像されるところ、当時山陰の中心であった出雲においては、当時近畿の中心であった大和よりも若干ではあれ先行して、弥生人移住/水田稲作伝播、が行われていたと考えられます。
 以上を踏まえ、私は、神武東征については、出発地を中田らのような南九州説ではなく、「・出発地の記載は「日向国」ではなく「日向」である。『日本書紀』では、日向国の名の由来は景行天皇の言葉であるとされているので、のちの日向国の地名は神武東征の時点では「日向」ではなかったと考えることができる。仲哀紀には日向を「膂宍の空国」、「鹿の角の如き実の無い国」と呼称するなど、日向が不毛の地であったことが窺え、古墳の築造も4世紀後半ないし5世紀に始まった事情もあり、後進地域であったことも神武出発の地とするには不自然である。・日向は固有名詞ではなく、太陽に向かう東向き、南向きの意か美称である。・南九州を出発すると、日向→宇佐→関門海峡→岡(洞海湾→遠賀川)→関門海峡→安芸と、流れの速い関門海峡を二度通ることになる。・「筑紫の日向」は「九州の日向國」ではなく「筑紫國の日向」(福岡県に「日向」の地名がある)と解釈すべきである。たとえば邪馬台国九州説の舞台の範囲でも、伊都国があった福岡県糸島市と奴国があった福岡市の間には日向峠(ひなたとうげ)があり、そこには二級河川の日向川(ひなたがわ)が流れている。福岡県朝倉市には日向石という地名があり、福岡県八女市の矢部川流域には日向神という地名がある。また糸島市周辺には記紀とは異なる日向三代の神話があり、平原遺跡からは原田大六によって八咫鏡に比定される大型内行花文鏡が出土している。・『古事記』では天孫降臨で日向の高千穂を、「韓国(からくに・朝鮮半島南部の国家)に向かい笠沙の岬の反対側」としている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E6%9D%B1%E5%BE%81
を踏まえ、北部九州説を採っています。
 その上でですが、どうして「東征」に関しては「神武東征」だけが神話化したかは、水田稲作の東方伝播が最も早くかつメインであり続けた瀬戸内海を経路としたところの、弥生人移住/水田稲作伝播、だったからこそだと思うのです。
 しかし、大和の弥生人達から見れば、出雲(や四国や山陽)の弥生人達の方が先達であった以上、しかも、出雲の弥生人達も、(東征的な話こそ含まれていないけれども)独自の神話を形成していた以上、彼らや彼らの神話を相当程度尊重せざるをえなかった、と。(太田) 

(続く)