太田述正コラム#14504(2024.10.6)
<中田力『日本古代史を科学する』を読む(その7)>(2024.12.31公開)
「・・・白川静氏によれば、天皇の祭祀は商(殷)王朝由来であるという。
⇒具体的根拠が示されていないので判断のしようがありません。
いずれにせよ、宮中祭祀のウィキペディアの、「神話学者の松前健は「記紀」等に見える初期の大王の記録や古社の記録等から、初期ヤマト王権では三輪山を斎場とした日神祭祀があった可能性を指摘している。やがてヤマト王権の勢力が日本の東西に広まるにつれ、古くから日神崇拝の聖地として中央にも知られていた伊勢の地を大王の聖地とし、皇祖アマテラス大神として信仰するようになっていった。「遅くとも6世紀前半」「どんなに遅く見積もっても6世紀末以前」には皇祖神の天照大神として伊勢神宮に祭られていたという。 また、大王自身も「カミ」を祭るのが本来の主要な任務であったとされ、しばしば「ウツシイワイ」を行った神武天皇や、自ら神床に通夜し夢告を受けた崇神天皇の記事にその様子が伝えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E4%B8%AD%E7%A5%AD%E7%A5%80 ※
という記述の中に、支那の諸王朝由来であることを伺わせるものは何も出てきません。(太田)
大和朝廷の前身であった邪馬台国の祭祀は卑弥呼が執り行っていた鬼道であるから、天皇の祭祀はそれとは違うことになる。・・・
⇒検索上位に現れる、「邪馬台国は神官を中心にした緩やかな連合国家の盟主でしたが、ヤマト王権は力の強い豪族(後に天皇)中心とする中央集権国家でした。・・・邪馬台国が敵国としてヤマト政権に滅ぼされていたの<か>・・・穏やかに吸収合併したのか<等は、>・・・「空白の4世紀」の記録が出てこない限り、明らかにはならない」
https://rekishi-style.com/archives/263
や、「大王墓とされる多くの古墳に囲まれた奈良盆地の纏向遺跡が、ヤマト政権と何らかの関係がある事は間違いないだろう。邪馬台国が発展してヤマト政権になったのか、邪馬台国を倒した勢力がヤマト政権になったのか、邪馬台国は記紀に記される磐井氏のような九州豪族だったのか、又は全く別の事実があるのか。現段階では、何も結論づいてはいない。」
https://rekishi-memo.net/yayoijidai/yamatai_yamato.html
といった記述を踏まえれば、「大和朝廷の前身であった邪馬台国」などとは到底言えなさそうです。(太田)
天皇の祭祀は、・・・一般的には、「国譲り」により統合された出雲から受け継がれたと考えられている。・・・
⇒やはり、※の記述の中に、それを伺わせるものは何も出てきません。(太田)
ところが、・・・出雲古来の文化を表すとされる銅鐸などの出土品は商王朝とは無縁のものである。
加えて、・・・出雲の銅鐸の原型と思われる青磁の鐸が、江蘇省無錫市にある越の貴族の墓から出土し<ている(注14)。>」(129~131)
(注14)「春秋戦国時代(紀元前770-同221年)の地方国家、越の貴族墓から、日本の弥生時代の銅鐸に形が似た青磁器の鐸がこのほど出土した。発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張敏所長が・・・2006年2月・・・9日までに明らかにした。」
https://www.shikoku-np.co.jp/national/culture_entertainment/20060209000309
⇒「「銅鐸文化圏」と「銅矛文化圏」という言葉は論じられることがなくなり、小学校の教科書からも記述が削除されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%85%E9%90%B8
現在、銅鐸文化圏の存在を前提として、その中心を出雲に措定する中田の主張は、もはやナンセンスと言うべきでしょう。
なお、「「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」への展開<がなされたとされつつある。>・・・最近では・・・北部九州で作られたものが出雲<等>にひろまったと考えられるようになった。・・・<また、>三輪氏や賀茂氏などの地祇系氏族との関連は以前より指摘されており、出土分布が島根県(大国主神など出雲神話の舞台)、兵庫県(播磨国風土記など出雲系神話の舞台)、徳島県(天八現津彦命の後裔が定住)、高知県(天八現津彦命の後裔が定住)、奈良県(事代主神など三輪氏の本拠)、滋賀県(和邇氏一派や三上氏の本拠)、長野県(建御名方神の後裔が定住)であるように、三輪氏系部族と物部氏系部族の政治連合体において象徴的に用いられたとする説もある。これらは神武東征の影響によって崩壊し、畿内の中心地域から弥生時代後期に銅鐸が消えたとされる」(上掲)ところです。(太田)
(続く)