太田述正コラム#14506(2024.10.7)
<中田力『日本古代史を科学する』を読む(その8)>(2025.1.1公開)

「・・・句践<が>・・・呉を滅ぼした<のは>・・・紀元前473年のことである。
 しかし、<その呉も、>・・・紀元前334年<に>・・・楚によって滅ぼされる。・・・
 越を建国した百越<(注15)>と呼ばれる諸民族の力が強い地方<である>南方<に>・・・越の王族・貴族<は>南下し・・・閩越<(注16)>(びんえつ)を建て<た。>・・・

 (注15)「百越(ひゃくえつ)または越族は、古代<支那>の南方、主に江南と呼ばれる長江以南から現在のベトナム北部にいたる華南地域という広大な地域に住んでいた、越諸族の総称。・・・
 非漢民族<で、>・・・現在の<福建省の北に位置する>浙江省の東海岸が起源と見られる。言語は古越語を使用し、華夏民族とは言語が異なって、言葉は通じなかったとされる。しかし、古代からシナチベット語である上古漢語に莫大な影響を与えた。
 周代の春秋時代には、楚、呉や越の国を建国する。・・・
 楚は漢を構成する。漢が存在した時は、越は楚、呉や越を呼ぶ呼称ではなく、2つの越の国が確認できる。1つは長江以南である<支那>南部と現在の広東省、広西、ベトナムにかけて存在した南越、もう1つは、<支那>の閩江(福建省の川)周辺の閩越(びんえつ)である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E8%B6%8A
 (注16)「戦国時代に楚によって滅ぼされた越人が・・・現在の福建省・・・に逃れ、現地の百越族と共同して樹立した。存在期間は紀元前306年から<漢の武帝の時の>紀元前110年頃とされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A9%E8%B6%8A

 だとすると、北上して倭国に逃れる必要のあった集団<は、>・・・越の民となっていた、かつての呉の民である<と>・・・考えられる<。>・・・

⇒既述したように、日本列島に関してはBC4世紀に特別の意味などないのですから、その時期の支那からの日本列島への渡来民があったとしても、特記すべきことではないでしょう。(太田)

 楚は異民族国家であった。
 所説あるが、現在の苗(みやお)族の前身で、三苗<(注18)>(さんびょう)と呼ばれた人々の国であったとするのが一般的である。<(注17)>」(132~133)

 (注17)「楚の成立に関しては、漢民族の母体となった広義の黄河文明に属する諸族が移住して成立したとする北来説と、それとは異質な長江文明の流れを汲む南方土着の民族によって建設されたとする土着説に大きく分かれ、さまざまな仮説があるものの、いまだに定見も有力説も定まっておらず、民衆および支配層がいかなる民族であったのかは解っていない。・・・
 北来説の中で有力視されるものに、現在の河南省から山東省南部に分布していた東夷が楚を建国したという説がある。また土着説では、湖北から湖南・貴州省に点在するミャオ族の祖先が楚を建国したという説が有力視されているものの、どちらも有力な証拠はまだない。近年、楚墓発掘の進展で、おおかたの埋葬が王族庶民を問わず周様式の北向き安置ではなく南を向いて安置されており、当時の中国では珍しい形式であるため、土着ではないかとする説がやや有力になっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%9A_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)
 「伝説中の「三苗」と、古代の楚や呉を構成した人々と、現在のミャオ族との関連を実証する史料は存在しない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A3%E3%82%AA%E6%97%8F
 (注18)「三苗人(さんびょうじん)は<支那>に伝わる伝説上の人種である。三毛(さんもう)苗民(びょうみん)とも。古代<支那>では南方に位置する国に棲んでいたとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%8B%97%E4%BA%BA

 「注15」と「注17」の内容が微妙に異なるのは困ったことですが、いずれにせよ、楚と呉/越を峻別する中田の所説に根拠など皆無でしょう。(太田)

(続く)