太田述正コラム#14510(2024.10.9)
<中田力『日本古代史を科学する』を読む(その10)>(2025.1.4公開)
[高志について]
「古代の広域地名<である>高志<は>、古志、古之とも書く。本州の日本海沿岸域北半、敦賀湾から津軽半島までを包括する。
律令期以降の越前、加賀、越中、越後、出羽に相当し、若狭、佐渡は含まれない。
≪日本書紀≫の国生み神話の多くは、本州を意味する<大日本豊秋津洲(おおやまととよあきづしま)>とは別に<越洲(こそのしま)>を掲げており、かなり遅くまで畿内の王権とのつながりの薄い独立性の強い地域であったと考えられるが、507年には継体天皇を畿内に送り出したと伝承される。・・・
何故、コシ(高志)のヤマト言葉に越(エツ)と言う漢字を当てはめたかが疑問となる<。>」
https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12056898514.html ☆
「この仮説の正しさはY染色体ハプロタイプ解析からも裏づけられる。
南下したであろう越の人々を含め、現在、華南の<支那>人、ベトナム人、タイ人などの米作りの民のO₂グループは、そのほとんどが・・・<その>サブグループ<のa>に属し、日本、韓国のO₂グループである<b>グループとは一線を画すからである。
<このb>グループが日本に到達してから分離したと考えることは分子生物学上無理であり、この明快なサブグループの分離は、春秋時代に呉を形成した民が<b>のグループで、越を形成した民が<a>であったと考えることで納得がいく。
そして、越の文化を日本に運んだ人々は、越の<a>ではなく、<b>、すなわち、もともとは呉の民と同じハプロタイプを持つ越の人たちだったのである。」(135)
⇒「最近日本列島の遺跡から出土した人骨のゲノムの研究による「三重構造」モデル、すなわち、縄文人の祖先集団、北東アジアに起源を持ち弥生時代に日本に渡ってきた集団、そして東アジアに起源を持ち古墳時代に日本に渡ってきた集団の三集団の混血により日本人が形成されたという説が提唱されました。」(2024.4.18)
https://www.riken.jp/press/2024/20240418_2/index.html
というのが、遺伝子分析に基づく日本人の起源論の現在地であるところ、古墳時代は「3世紀半ばから7世紀頃」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%A2%B3
ですが、支那の支配階層の日本列島渡来は、前漢(~8年)末~後漢(25年~)初の混乱期が初めてで、彼らが那国等を北九州で建国したと見ており、三国時代(広義:黄巾の乱(184年~西晋による支那再統一(280年)、狭義:後漢滅亡(220年)/三国分立(229年)~蜀漢滅亡(263年))
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD)
がメインで、彼らが邪馬台国等を建国し、ヤマト王権を確立した、と見ています。
これらより前の、支那の水田稲作を引っ提げた被支配階層の日本列島渡来については、弥生人が呉人と同じ<b>グループの者が多く、越人と同じ<a>グループの者は少ないとする指摘は中田以外も行っており(☆)、どちらも、越人が<a>、呉人が<b>であることの典拠を示していませんが、仮にその通りだとしても、呉の方が位置的に朝鮮半島/日本列島に近いことから、仮に、越人と呉人が、日本の縄文時代末期当時から争っていて、それに嫌気がさした越人や呉人が逃散しようとする場合、呉人の方が(山東半島や)朝鮮半島/日本列島を目指し易いことは確かです。
その結果、日本の弥生人には呉人系が多くなったとしても不思議ではないことになります。
また、先達たる被支配層の渡来呉人達がかねてより日本列島に渡来してきていたところへ、呉のBC473年の越への吸収からその越のBC306年の滅亡の後にかけて、支配階層と被支配階層たる(越人も含む)呉人達の一部が新たに日本列島にまとまって渡来したけれども、列島内の相対的「僻地」である南九州と古志に入植・定着せざるをえず、後者をあえて「越」と歎息的に蔑称したところ、前者が東進してヤマト王権を樹立し、出雲を中心とする古志の「同族」勢力を「平和的」に吸収して日本の統一を果たしたのだとすれば、かろうじて、平仄が合うことになりそうです。(太田)
(続く)