太田述正コラム#14512(2024.10.10)
<中田力『日本古代史を科学する』を読む(その11)>(2025.1.5公開)

「・・・姫姓の呉が博多の奴国の起源であり、徐福<(注20)>の渡来が邪馬台国の起源であると考えると、出雲の起源は呉の難民より遅れた時代、徐福の渡来時期に近いころに出雲に辿り着いた集団が建国した国である可能性が高い。

 (注20)「徐福に関する伝説は、<支那>から日本や朝鮮半島に伝わって散在し、内容は地域によって様々であるが、いずれもほとんどが後代に作られた「淮南衡山列伝」の記述に基づいたものである。昔の<支那>人も徐福がどこに逃げたかはっきりしていなかったが、徐福が日本に逃げ出したと推測を記録しており、これが日本に伝わって多くの伝承が創作された。・・・
 近代の<支那>には徐福の末裔が天皇であるとか徐福が秦氏の先祖であるという話が創作されていて、「徐福」と「秦氏」は本当は「古代イスライム」から「秦」に渡って来た「イスラエルの失われた10支族」の一族とされている説も作られるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E7%A6%8F

⇒「創作」としてさえ、徐福邪馬台国起源説を唱えた者は中田だけのようですね。(太田)

 呉の滅亡が紀元前473年、徐福の渡来が紀元前210年頃であるから、紀元前334年の越滅亡は、この仮説に適合する唯一の出来事である。・・・

⇒中田の言っていることがさっぱり分かりません。(太田)

 商王朝滅亡後、商の祭祀を伝承する立場にあった家系は二つ、商王朝の王家である子姓<(注21)>の一族、そして、祭祀を守る家系であった尹(いん)姓の一族である。

 (注21)「子<は、>・・・殷の王族<は、>子姓で<あったところ>、国の滅之後、国名<の商>を氏とした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%86_(%E5%A7%93)

 前者の代表が北方に逃れて箕子朝鮮を開いたとされる紂の叔父、箕子<(注22)>であり、後者の代表が、周王朝の祭祀を伝えたとされる尹佚<(注23)>(いんいつ)、後の史佚である。」(136、139)

 (注22)「殷王朝の政治家。文武丁の子で帝乙の弟。帝辛(紂王)の叔父にあたる。箕の国に封じられたので箕子と呼ばれる。名は胥余。・・・
 武王が殷を倒すと箕子を招聘して政治について問い、そのあまりの該博さに驚嘆し、武王は箕子を崇めて家臣とせず、朝鮮に封じた。朝鮮侯箕子は殷の遺民を率いて東方へ赴き、礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広め、また犯禁八条を実施して民を教化し箕子朝鮮を建国した。
 箕子が武王に洪範九疇を教えたことをもって、箕子は後の李氏朝鮮で中華文明の保持者および、朝鮮での先王の道の創始者として祀られた聖人となる。特に平壌は箕子朝鮮の都として認識され、平壌に殷代の田制である井田制の痕跡があり、これは聖人箕子が残したことだと認識され、李氏朝鮮初期から箕子を祀る祠堂があった。夷狄である古朝鮮が箕子から犯禁八条を教えられたことは、朝鮮としては幸いであり、世を治める箕子の教えが納められた洪範九疇を君・臣が誠に受け容れて実行するならば、朝鮮は箕子が治めた中華の国となれるという認識は、李氏朝鮮の儒学者の考え方であり、小中華思想の根拠となる。李氏朝鮮の実学者である安鼎福は、「中華文明=礼・文」の保持者として箕子を崇め、こうした箕子の「礼・文」を継承した朝鮮こそが「中華」であると主張している。
 箕子の子孫である準王は衛満に王権を簒奪されると、南走して辰国に行き、韓王となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%95%E5%AD%90
 (注23)「周朝初年太史,尹國建國者,輔佐周武王、周成王、周康王<>・・・周武王滅商朝,即位策由尹佚宣讀」
https://zh.wikipedia.org/zh-hant/%E5%B0%B9%E4%BD%9A

⇒「周王朝の祭祀を伝えたとされる尹佚・・・、後の史佚」の、前段については「周武王<の>即位<の際の>策由<を>宣讀<した>」こと以上の、また、後段については全く、確認がとれませんでした。(太田)

(続く)